『自分自身を説明すること ― 倫理的暴力の批判』(ジュディス・バトラー)書評

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

 いかなる共通の地盤も想定されないような対話を続けることにどんな意味があるのか(p39)

 障害者/健全者、貧乏人/金持ち、男/女、社会的弱者/強者、民族間などなど。
 社会的・環境的・身体的につくられたさまざまな差異(差別・区別)がこの世の中には存在していて、そうした境界線に無自覚な人も多いけど、それによって苦しみ悩んでいる人も数多くいるように思う。自分の立場を自覚しつつ、境界線の向こう側の相手といかに対話を続けていくことができるか、そんなことに思い悩む人も多いと思う。
 「お前にはわかんないよ」
 そんな言葉が、対話を遮断する最後の決め言葉としてしばしば聞かれる。禁句だとわかっていても、つい発してしまうこの言葉。
 それでも、ぼくたち、わたしたちは、対話をつづけ、関係をとりもとうとする。絶望的な場面にしばしば出会いながらも、関係を築き、お互いに認め合おうと努力する。
 ためらないながら、同じところをぐるぐるまわっているようにも感じながら、それでも話を続けながら生きていこうとする。
 そんな葛藤、模索の中にある人々に薦めたいと思うのが、『自分自身を説明すること』というこの本です。

 手短に紹介するのが難しい本です。内容もちょっと(?)高度です。でも、ほんまに現場でさまざまな葛藤を抱えながら働き・活動している人々の心にはぐっとくる本だと思います。
 著者のジュディス・バトラーフェミニズムやクイア理論方面ではかなり有名な人(らしい)。
同性愛者であることを公表しており、社会の価値観・既成概念をぐらつかせようと活動している人でもあります。文章がムズカシイことでも有名だけど、この本はそれなりにわかりやすいと思います。

 さて、ぼくとしては普段あまりこういう本を読まないのだけど、この本の題名や中身に興味をひかれ、読もうと思うきっかけとなった出来事をちょっと紹介します。
 とある施設入所者のケア会議の場面にでくわしました。とっても重い身体障害があり、手足は動かず、口から発する言葉もほとんど聞き取れない。けど、彼は施設を出たいと言うのです。それで、家族と施設長とJCILの支援者が集まりケア会議となりました。家族は一同反対です。そして施設長もその入所者(仮称Kさん)に対して堂々とこうおっしゃる。

 「Kさん、あなたは家族に説明する責任をはたしてないじゃないですか。社会人としての自己責任をはたさないといけません。具体的なプランもちゃんと説明しないといけません。」

 ここで、ぼくは極端な違和感を覚えました。そしてこの言葉はKさんに対しては一種の暴力になっているのではないか、とも思いました。Kさんは障害も重く、施設に入っている限り、だれもまともに彼の言葉を聞こうとする人はいません。日頃から、車いすにのせるかベッドに寝かせて、放置しているようなものです。けど、時間をかけて支援をしていけば、彼の言葉が少しずつ聞き取れるようになります。施設にいるかぎり、それをやってくれる人はいません。その状況は黙認です。それなのに、どうやって彼が自分のことを説明できるというのでしょうか。突然社会人としての自己責任をはたしなさい、と言われても、今まで社会にもほとんど出してもらわず、言葉を出す機会も奪われた者にとって、いかにしてそんなことができるでしょうか。施設長は、確かに社会人として立派なふるまいをしているようにもぼくには感じられたのですが、彼に対してはあまりに抑圧的であると感じました。
 
 こうした出来事は、みなさんも多く経験していると思います。健全者社会におけるモラルにもとづいて障害者に発せられる言葉は、しばしばきわめて暴力的・抑圧的なものとなります。
 バトラーによれば、そうした一方的な言葉による要求は「倫理的暴力」とよばれます。
 「倫理的暴力は、私たちが自己同一性を絶えず明示し、維持するよう要求するのであり、また他者にも同じことを要求する」(p79)
 つまり健全者である自分(たち)自身のモラルにもとづいて、相手の立場・状況を考慮することなく、自分たちと同じようにふるまうことを相手に要求するということが「倫理的暴力」と言われています。本人たちは道徳や正義にかなったをことをしていると思い込んでいるので、たちが悪いです。
 ただ、問題は、それにもかかわらず、その立場の異なる者同士も相互理解の努力を続けていかないといけない。一方が一方を押さえつけるだけでも、互いに関与せず閉鎖的になるだけでもいけない。そして、たとえば「障害者」だからという理由で、他者に対する責任を逃れられるわけではまったくなく、それぞれなりの仕方で、他者の呼びかけに対する応答責任をはたしていかないといけない。そしてまた、その応答責任の前提となるモラルや倫理、規範といったものを、他者と出会い応答しあう中で、わたしたちは常に相互に問い直していかないといけない。そうしたところが、重要なのだと思います。

 このように言う根本には、自己とか主体というものについてのある哲学的・精神分析的な理解があります。(ここでは直感的にわかりやすい精神分析的な議論を紹介します。)
 他者に対して自分自身を説明するということ、自分自身の応答責任をはたすということが、この本の主題なのですが、実をいうと自分自身を説明するということは、根本的には徹底しきれないもの、つまり常に不十分におわるものなのです。「私」というものの起源を考えてみても、常にそこにはある「不透明さ」が残るわけです。誰も私の起源を十分に語ることはできません。私は、私自身の意識に先立ち、わたしが生まれる前から存在するある特定の歴史、社会等々の中に生まれてくるわけです。そうして未知なるものの影響を受けることによってはじめて、「私」という主体が芽生えてくるのです。私の起源には未知なるものがあり、私という主体はその原初的影響の刻印を通じて形成されるわけです。「大人」というものがその歴史や文化の代表であり、その大人のメッセージの刻印を幼児のときに植え込まれ、そうして私は「大人」になっていくのです。(なんならこの「大人」を「健全者」に言い換えてもいいかもしれません。)そして多くの場合、この大人(ないし健全者)は、自己の存在をその原初において他者に負っているということを忘却し、自分たちに適合した社会のモラルに中に安住して生きていくことになります。(そしてその安住は先ほど述べたような他者に対する倫理的暴力につながります)
 私は原初的に、自分にとっては未知なるものによる刻印によって成立しています。つまり私は自分の起源を未知なるもの、ないし他者に負っているわけです。ある意味では、私は自分の起源についての責任は負えないわけです。
 ならば、いったい私たちにとって他者に対する責任とはどうなるのか、自分自身を説明するという責任は、私たちから免除されるのか。そこらへんのことがこの本の大きなテーマになるのですが、まさしく自分自身の起源については自分で責任がとれず、他者に負っているということそのものが、ある新しい責任の在り方、倫理のあり方、他者との関係の在り方とつながっていきます。

 発達関係に由来する自己への原初的な不透明性を仮定することは、他者に対する倫理的関係にとって一定の含意を持っている。実際、人が自分自身に対して不透明であるのはまさしく他者への関係ゆえであるとすれば、また、他者へのこれらの関係が人の倫理的責任の発生源であるとすれば、そのときおそらく次のように言うことができるだろう。すなわち、主体がその最も重要な倫理的絆の幾らかを招き寄せ、支えるのは、まさしく主体の自分自身に対する不透明性によってなのである。(p37)

 私たちは不可避的に他者とのつながりの中で生きています。「私とは、自分自身に閉じこもった、独我的な、自分自身についてだけ問いかけるような、言わば内的主体ではない。私は重要な意味であなたに対して存在しており、あなたのおかげで存在している。」(p57) 他者との関係をまってはじめて私は私であることができ、そして私は他者という未知のものとのつながりの中でのみ社会的生を営んでいきます。そうである以上私は自分自身に対して根本的には「不透明」であるのだけれど、まさにその「不透明さ」が、他者との「倫理的絆」のあかしなのです。
 私にとって未知なるものである他者との出会いは常に私自身の存在基盤を揺り動かし、私に変容を迫ります。私に変容を迫り、それまでの私を瓦解させるようなその出会いは私にとっては苦しみでありしんどいことだけれども、バトラーは、まさしくその苦しみこそが、他者と結ばれるチャンスだと言います。その苦しみを引き受け、悩み葛藤していく中にこそ、きわめて重要な意味での、そして新しい意味での倫理があるのではないか、そのようにいう本書は、冒頭に述べたような、人との出会いにおいてある苦悶や葛藤のなかにいる人々にとって、もちろん十全な回答を与えるわけではありませんが、一筋の希望の光をさしこむように感じます。
 やさしい本ではないので読むのに時間はかかると思いますが、じっくりと読んでいただけたら幸いです。

(日本自立生活センター(JCIL)機関紙「自由人」60号(2008年9月)に掲載予定)