養鶏場と有の忘却

昨夜はこのことを思ってあまり寝付けなかった。

「ここに於て吾々はもう一歩手前の問から出発しなければならない。それは、今日「有るもの」は如何に有るか、という問いである。それは、先に言及された機能ということで答えられているが、ここでは具体的な実例について考えてみる。第二次世界大戦後に日本にも現代的な養鶏技術が輸入された。それを筆者は郷里の町で見て愕然としたことがある。夜通し煌煌と照明された鶏舎の中で、それ自身人工的に孵化された鶏は、一定の位置に釘づけにされて身動きも出来ず、餌を喰い卵を産むだけである。その卵はベルトコンヴェイアーで容器の中へ運ばれ集められる。鶏が一定数の卵を産まなくなると、絞殺されて今度は鶏肉として売りに出される。これは、現代的な食糧産業の工場であるとともに鶏のアウシュヴィッツである。ここでも鶏は鶏であるが、併し製卵機械としての鶏である。卵は卵であるが、併し蛋白源としての卵である。このようなことをせざるを得ない人間は人間であるが、養鶏場の経営者にして管理者として否応なしに非人間化せざるを得ない。そのような有り方をしている「有るもの」は、鶏も卵も人間も、それらが各々の自然本姓に従って真に有るようには、最早有るのではない。鶏も卵も人間も今日では「有の真性から見捨てられてある」。これに類似した実例は今日到る処で見出される。
 如何なる「有るもの」も多かれ少なかれ有の真性から見捨てられてあるという意味での「有から見捨てられてあること」(Seinsverlassenheit)は、現代世界の内に有るものの有り方である。このような意味での「有から見捨てられてあること」は、「有るもの」に即して「有るもの」の方から経験された「有の忘却」(Seinsvergessenheit)に他ならない。」
(辻村公一「最後の神 ― ハイデッガーの思索に於ける ―」)