「共依存」〜ケアを通しての抑圧の悲哀と隠微さ

共依存 苦しいけれど、離れられない (朝日文庫)

共依存 苦しいけれど、離れられない (朝日文庫)

 前号で、上野千鶴子さんの『ケアの社会学』を紹介した。ケアを家族の束縛から解放させ、その社会化をより一層切り開こうとするこの本の意義を一定認めつつ、他方で障害者介護保障運動の視点から、この本の限界を何点か批判的に指摘した。批判の一つとして、前号では指摘し切れなかったが、ケアの与え手役割を担わされてきた者の加害性についての言及がない、という点がある。
 「自立生活運動は常に、健常者社会、健常者文明一般を批判すると同時に、目前に立ちはだかった「母なるもの」と対決してきた。母はしばしば障害者にとって直接の抑圧者であった。」と前号の拡大版(前のブログ記事)で書いたことがある。
 健常者の男性であるぼくがこのことを指摘するのには、確かに大きなためらいがある。けれど、この「母なるもの」との闘い抜きには、自立生活運動は語れない。日々ぼくらは、この母なるものの抑圧と向き合っているような気もする。では、この「母なるもの」はいったいなんなのだろうか。

 そしておそらくフェミニズムにとっても、「母なるもの」の加害性は、看過できない課題であるはずなのだ。上野さん自身も、『家父長制と資本制』という代表作で、「子供の抑圧と叛乱は、フェミニズムとつながる重要な課題である。女性と子供は、家父長制の共通の被害者であるだけでなく、家父長制下で代理戦争を行なう、直接の加害―被害当事者にも転化しうるからである。家父長制の抑圧の、もう一つの当事者である子供の問題と、それに対して女性が抑圧者になりうる可能性への考察を欠いては、フェミニズムの家父長制理解は一面的なものになるだろう。」と述べている。しかし、彼女にはこの問題への言及がなかった。

 この微妙な加害性は何なのだろう。確かに、女性はケアの与え手役割を社会的に、自覚的であるにせよないにせよ、ほぼ強制的に担わされてきた。男性は子育て、介護、ケアから目をそらし、それを女性に一任することが社会的に許されてきた。女性は直接、ケアにあたるからこそ、直接の加害者に転じやすかった。しかし、男性がケア役割を免責され、女性に社会通念として強制的にケア役割が担わされてきた以上、女性はある面で被害者としての位置ももっている。その加害性は、論及しにくい。

 今回取り上げる信田さよ子さんの『共依存』は、その「母なるもの」の微妙な加害性について、実に見事に、女性へのシンパシーあふれる筆致で、描いている。信田さんは、その加害性、「支配の責任」をはっきりと断罪する。しかし、ケアの与え手が、ケアの受け手に対してなぜそうした支配の形態をとったのか、とるほかなかったのか、それを文学的感性豊かな文章で、記述していく。その文体のもつ、妖しい力に、読者はしばしば背筋をぞっと寒くするだろう。
 使われる題材として、山田詠美の小説や、ドラマ「冬のソナタ」、映画「猟奇的な彼女」、「男はつらいよ」、「嫌われ松子の一生」など、どれもなじみ深くわかりやすい。その人間ドラマにみられる「共依存」。信田さんの分析は、はっと自分たちの日常の人間関係をふりかえらざるをえない何かがある。

 「共依存」という言葉は、もともとはアルコール依存症の夫をもつ妻に対して使われた言葉であるそうだ。妻が依存症の夫をケアし続けることで、夫の飲酒はいっそう深まる。妻のケアが夫の依存症を維持させてしまっている。そして妻も、この人は私がいなければだめなのだという思いで、その関係の中にはまりこんでしまっている。そこから抜け出せなくなってるから、「共依存」。

 けれども信田さんは、この「共依存」という概念をもっと広げて考える。そしてこの言葉の中に、愛情とか奉仕といった美名を越えて、ケアという行為によって相手を所有する快感、さらには人間関係の上下を操ろうとする力・権力の行使をみてとる。
ときに依存症の夫を、ますます依存症の状態に追い込む場合があるという。夫が酔いつぶれ無力化・幼児化するとき、夫にふりまわされる存在から反転し、自分が夫を掌中に収めるポジションにたつ。この人を面倒見れるのは自分だけ、夫を生かしているのはケアの与え手あるこの私であるという万能感、「自分がひとりの人間を生かしているという所有と支配に満ちた感覚」(59)、ときにケアにはそうした支配の感覚が伴うと彼女は指摘する。「対象を自分なくしては生きられなくしていくこと、依存されたい欲求を満たすこと、これらは暴力で相手を屈服させるよりはるかに隠微で陰影に富んだ快感をもたらしてくれるだろう。」(104)
けれども信田さんは、こうした妻から依存症の夫への共依存を、ストレートには共依存とよばない。妻からしたら、それは散々振り回された夫に対する最後に残されたリベンジの手段でしかない。

「飲んだ夫を捨てることがいかに困難かは多くの離婚した女性たちへのバッシングを見れば明らかだ。そんな彼女たちに残された夫に対する唯一の支配(力の行使)が、ケアを通した夫の無力化(幼児化)である。共依存とそれを呼ぶならば、ケアの与え手役割という社会通念を遵守した、たったひとつの夫へのリベンジであるという注釈が必要だろう。」(122)
 
 むしろ信田さんは「共依存」概念を掘り下げ、より力ある者が、より弱い者に対して、ケアという美名を通して、隠微な方法で相手を全面に支配してしまおうとするあり方を、より本質的な意味で、「共依存」と呼ぶ。彼女は、共依存の特徴を、愛情・世話などの美名を隠れ蓑にして、より弱者に対して行使される支配とみなす。ジェンダーが逆転し夫が妻をアルコール依存症に追い込みそうして妻を自分の掌中に収めようとするとき、あるいは親が子どもの世話を焼くふりをして子どもを自分の都合のいいようにコントロールしようとするとき、そうした権力が発動される。自分を屈曲させて、相手を狡猾に自分の掌中に収めてしまおうという隠微な手法。相手のために尽くしていると見せかけて、相手をわがものにしてしまおうという隠れた動機。相手を幼児化し退行させることで得られる支配感。暴力・DVで相手を支配するのではなく、ケアという美名のもとでの行為により、そのうちに相手をわがものにしてしまおうとする意図。それは、男性的な見えやすい暴力とは別の支配の形態だ。

 「DVに見られるような、雄太が花にやったように殴ってしつける、思いどおりにするために殴るという行為は紛れもない支配だ〔小説『風味絶佳』が題材〕。しかし相手を自分に依存する存在にし向けていくのも支配の一形態といえないだろうか。しかも自分がいないと生きられない存在へと対象を用事かさせ無力化していく支配は、しばしば世話やケアや愛情行為と見紛うことになる。」(102)

 こうした支配のスキルは、残念なことに、近代社会において女性にあてがわれてきた社会役割からして、ちょっとだけ女性の方がたけている、と彼女はみる。これは一つの、この社会を生き延びるためのスキルだ、とみている。そして、女性に限らず、この社会の中で組織の一員となっている者は多かれ少なかれ、こうした隠微な方法を行使しているはずだ。

 「男性も同様に、企業や家庭や地域において、微細な上下関係や支配関係を泳ぐ技術なくして生き残れない社会になっている。共依存という支配は、その中を生き延びていくための有効なスキルの集積でもある。弱者のふりをして支配する、相手を弱者化することで依存させて支配者となる、相手を保護者に仕立ててケアを引き出す、などなど。隠微でどこか卑怯な香りのする支配を、私は好んでいるわけではない。しかし、生き残っていくためには、時としてそんなスキルを用いるしかないときもあるだろう。」(185)

 彼女は、こうしたスキルを使いこなせといっているわけではない。それを用いて生きていかないといけない局面はこの社会の中ではたくさんあるだろう。しかし、それがより弱者に対して用いられるとき、あからさまには見えにくいかたちであるが、その者たちに対する抑圧・加害につながっていることは気づかれないといけない。「母なるもの」による抑圧。それは美名を利用した支配の一形態。「近代家族の負の遺産」としてそこには、そうしたあり方をとらざるをえない悲哀が確かにある。その抑圧は、おそらく隠微さだけなく甘美さまでも含んだ何かであろう。そこに接近する好著である。

(JCIL機関紙「自由人」72号掲載)