『魔の山』を読んだ

f:id:takutchi:20211008225858j:plain今から約100年前に書かれたトーマス・マンの『魔の山』を読んだ。

細かい字で、上下合わせて1200ページほどの大作。

ここ一ヶ月ほど、時間を見つけて地道に読み進めていた。

晦渋な描写が多々あり、1時間かけても数ページくらいしか進まないこともあった。

結核患者たちの療養所を舞台とした作品。療養所というよりも、スイス高地のリゾート地にて、一日5食、手の込んだ料理を食べて、散策して、あとは医師の指導のもとひたすら布団にくるまって、新鮮な大気の中で体を休めるという療養ホテルが舞台。

それでも、ここに来る人たちは皆、発熱や深い咳、肺の状態の悪化のため、下の世界で自分の勤めを果たすことができず、いつ戻れるとも分からぬまま、場合によってはここでこのまま朽ちるしかないことを予感しつつ、十年一日の日々を過ごしている人々たちだ。

ここには、常に死の予感がある。死の臭いが漂っている。

幼い頃に両親を亡くし、親愛な祖父の死も経験したこの物語の主人公ハンス・カトルプは、もともと従兄弟の見舞いのためにこの地にやってきただけで、当初は三週間で帰る予定であったが、体調の変化もあり、この地にとどまることになり、そしてこの地で、ーちょうど瓶詰めの食料品が長期保存されるように、下界における時間の流れが停止しているようなこの地で、肉体について、精神について、理性について、愛について、死について、無気力やイラつきについて、数多くの経験をする。

主人公のまわりに、数多くの登場人物が現れる。

病と死の支配するこの地においても、理性と健康と進歩を声高に叫ぶイタリア人、セテムブリーニ。

死にいたる病を抱えた人とともに暮らすものの、自棄的にならずに、己を律し、いつの日か、自分の勤めを果たしに下界に戻ろうとする従兄弟のヨアヒム・ツィームセン。

病による自由によって、方々の療養所を点々としながら、若い主人公に腐敗する有機体としての肉体への愛をしらせるクラウディア・ショーシャ。

理性や健康、進歩などは欺瞞であり、病や死を通してこそ人間や社会にとっての真実があると主張するイエズス会士、レオ・ナフタ。

観念や口先ではなく、その人の存在そのもの、人格によって、人としての尊厳を伝えるピーター・ペーペルコルン。

他にも多くの人が現れる。

立派そうに見える人、胡散臭いことをいう人、余計なことを言わない人、下品に見える人。

主人公、ハンス・カトルプは、多くの人に出会い、多くの人と対話する中で、下界の時間のせわしなさ、浅さ、そして時に死の忘却の中では決して味わえないような経験を重ねる。

この小説の岩波文庫版の訳者解説の中で、「『精神の変化のなかで、死への親近感から出発して生への意志でおわる変化が、私たちにはもっとも親しみ深い変化である』とは、マンの言葉である。」と語られている。

魔の山』が「生への意志でおわる変化」を伝えきれたかどうかについては、解釈の余地が多くあると思う。

それでも、主人公ハンス・カトルプという一人の「単純な青年」を通して、自然、社会、生命、人間性などがこれほどまでに多種多様、多岐に渡るものとして描かれていることは驚嘆するほかない。

どれか一つの観念に固着することなく、さまざまな経験、叙述、理想などが交わる中での、生の戯れ、捉えきれない生の余白が語られているような小説だった。