「健全者問題論」

昨日大阪集会がおわった。
全部で60名ほど。
かなり密度の濃い集会だった。

こうして、介助者たちが自分たちの立場から自分たちの経歴や気持ちや思いを語るということ。
それは、この社会の中で一人の人として生きていくという意志を示す上で、とても重要なことだと思う。

そういう作業なくして、障害者問題を健全者問題として受け止めていくことはできないのではないだろうか?

ぼくはなにも障害者抜きに、介助者たちだけが集まってどうこうするということに意義を見出しているわけではない。
また、しばし誤解されるが、介助者の「労働者」としての権利主張を強調することに主眼があるわけではない。
やはり、「労働」以前の、人の自由とか生存・生活などにこだわっていきたい。
そうしたところから、人や社会を見ていきたい。

介助を社会的労働として位置付けること、それを公的介護保障運動はやってきたわけだし、そこにはとても大きな意味がある。

介助を通しての障害者との関わりではなく、介助を抜きにした障害者との関わりもあるのではないか、という人がいる。その話は理解できる。障害者との関わりに際して、あえて介助をもちださなくてもいいのでは、ということだ。しかし、それは介助という「労働」の部分は誰か他の人がやればいい、という発想につながっているようにも思う。女性はお茶を出して、後は奥の部屋にまっておれ、ということだろうか?政治家の秘書、社長の秘書は、さすがに政治家自身、社長自身の代弁をするわけにはいかない。
この社会では、介助者や秘書はあくまで副次的なもの。そこに一人前の社会人としての存在はない。

この社会がそういう構造だというのはわかっているし、いわば人として、社会人としての卓越性を発揮する上で、介助者や秘書がやる単純な生命維持や単純労働の部分は別に表ざたにせずとも隠しておけばいい、ということもわかる。

ただ、「介助」をそういう位置づけにおいとくだけでいいのかどうか。

別に「介助」にケアの美談を重ねよ、というわけでもない。

介助を社会的労働として位置づけようとした公的介護保障要求運動では、介護者はみずからに健全者・差別者としての自覚を促され、そのうえで介護問題を自分の問題として、障害者とともに闘うことが要請された。
介護保障要求者組合は、障害者・健全者の混合組織だ。

CIL系の当事者主体の運動では、むしろ介助は単純に「労働」として位置づけられた。
健全者性への自覚抜きの介助者手足論が広まった。

今や、要求者組合も衰退し、健全者性への自覚はほとんど消滅したかに見える。
その中で、昨日の集会では、健全者性への自覚を振り返ることの重要性が指摘されていた。

あるCILのスタッフは、自立生活運動・センターは良い健常者がいないとうまくいかないのでは?と語った。
当事者主体の運動では、よくもあしくも運動すべての責任を当事者が負わないといけない。
できなければ、それはできない障害者が悪いのだ、それで終わってしまう。
健常者の責任は別に問われない。
でもそれはどこかおかしい。なぜ健常者も、この社会の構成員としての責任をもって関わらないのか。
そのことをほりおこしていく必要があるのではないだろうか?

最近自立生活運動以前・以外への運動をふりかえろうという動きがある。
それは、今現在の当事者主体の運動が置き忘れてしまったものを探そうとしている姿なのではないだろうか?

昨夜の2次会で、もとゴリラ、障大連のhさんがこんなエピソードを紹介していた。

ある障害者の介助で、大学の「障害者問題論」の講座に参加した。
その障害者が、その講座名はおかしい、変えろ、と言った。
さて、何と変えろ、と言ったか?

「健全者問題論」である。

問われているのは、あなた自身なのである。