主体は後からやってくる

夜中にビール(プレミアモルツ)を飲みながら、イカ缶を食べた。
飲み屋だと1000円くらいしそうだが、家だと400円程度。
安上がりでいい。
なんとなく、うまいなぁ、と思いながら飲んで食べていた。

主体は後からやってくるんだな、ということを最近よく考えている。
以前ブログで紹介したジュディス・バトラーの本を再読している。

『責任という虚構』という本をちょっと前に紹介したが、そこで説かれている内容と似たようなことがバトラーの本の中で言われているので、ちょっと驚いた。自分の関心の所在がやっぱり類似のところにあるんだなぁ、と思った。ニーチェを引証しつつ、彼女は以下のように言っている。

「行為者は事後的にのみ行為に結びつけられるのである。実際、行為者は、法体系―つまり、件の自己を苦痛の因果的源泉として位置づけることで、説明可能性と処罰可能な罪を確立するような体系―が規定した道徳的存在論を満たそうとする割り当てによって、遡及的によってのみ、行為の因果的な主体になる。」(バトラー『自分自身を説明すること』p17)

主体は後からやってくるんだな、ということは、この本から多くを学びつつある。
あらかじめ、自分自身にとって理解可能な自分がいて、その確立している自分が他者を観察し、他者と出会い、他者と交わる、というのではなく、まず他者の存在があり、他者の働きかけがあり、その他者の呼びかけの中で、自分の主体もできてくる、そんな関係の中に自分という主体はあるのだ、根っこにおいて、自分は自分自身に不透明であり、他者との関わりの中でしか自分は存在しないわけで、それでも、責任というとき、自己責任の明瞭さではなく、自分に対する不透明さ(=他者との根本的なつながり)がかえって新しい倫理の可能性を開く、とそんな議論が展開される。

「私とは、自分自身に閉じこもった、独我的な、自分自身についてだけ問いかけるような、言わば内的主体ではない。私は重要な意味であなたに対して存在しており、あなたのおかげで存在している。」(p57)

介護ではなく、介助と言われるとき、その介助者というのは、上に言ったような場所に身を置く存在なのではないかなぁと思っている。介助者という主体は、常に他者の存在、他者からの呼びかけの後に成立する。先に介助をするものがいて、後に介助されるものがいるわけではない。

介護におけるパターナリズムは、先に介護者、指導員という人がいて、その人々の規範がまずあり、その枠の中に障害者・高齢者があてはめられることにより起こるのだろう。バトラーはそれを倫理的暴力と呼んでいる。

「倫理的暴力は、私たちが自己同一性を絶えず明示し、維持するよう要求するのであり、また他者にも同じことを要求する」(p79)

介護者が、十全な介護技術を備えた自己同一的な主体とすれば、介助者は、常に各々の障害者・高齢者との出会いの後で自らのあり方を定めていく、不確定だけど確かな存在であろう。

そうした介助のあり方というのは、おおよそすべての人間関係において重要なものだと思うし、たとえば安積遊歩がピアカンを当事者同士による「介助」として位置づけているのも、介助におけるその重要なポイントを外していないからだろう。

CILの中では、わりと単なる手足論、単なる労働論が語られるが、それはひょっとしたら倫理的暴力にもとづくものかもしれない。

障害者と介助者。お互いに未知である。
最近、発達障害精神障害をもつ介助者が介助に入り、見てるとほんまにどっちが介助をしているのか・介助をされているのか、よくわかんないことも多い。

介助者が上手じゃないと、障害者にとっては自分らしい生活が犠牲になる。介助者は障害者を前にしたら、その人の持つ自分らしさはいったん崩さないといけない。

自分らしさというのは、ときに倫理的暴力をともない、ときにその暴力はしかるべくして行使しないといけないと思うけれども、それでも介助という立ち位置、後からやってくる主体という自己意識は、忘れてしまいたくないものだ。