『責任という虚構』

責任という虚構

責任という虚構

『責任という虚構』(小坂井敏晶 2008年東京大学出版会

 人間は主体的存在であり、自分のことは自分で決めて行動する。また自分で考えて自分で行動するからこそ、自分がやってしまったことについては自分で責任をとらないといけない。自分で責任をとってやっていかいないといけない。まぁ、それが一般に近代的な人間像であり、障害者の自立生活運動でもよしとされる人間像だ。障害者が自分で決めないと、自分で考えろよ、自分で決めてくれよ、とまわりからつっこまれることも、しばしば見かける光景だ。
 ある人から聞いた話では、先日とある由緒ある障害者団体の総会で、70年代から自立生活をしているが結局「自己決定が何だかわからない」、と発言した人がいたそうだ。それに対して、障害をもつある大学教授は、自己決定の中身が問題なのではなく、要は専門家主導に対するアンチテーゼだ、と言ったそうだ。施設で管理される生活はイヤだ、専門家が自分たちの生活や生き様を決めるのはイヤだ、そうした意味での自立や自己決定は確かにわかる。しかし、それをこえて、自己決定の中身を考えると、けっこう何が何だか分からなくなる。地域で暮らし、いろんな人と関わって、いろいろ影響を受け合ったりしていると、ほんまに私は主体的なんかなぁ、と疑問に思うのも普通のことだと思う。自立生活運動に関わっている人で、わりとそこら辺についてもんもんとしている人もけっこういるのではないだろうか。
 この『責任という虚構』は、冒頭から、ずばり、近代的な主体的人間像に疑問を投げかける。ほんまに人間は主体的なのか、ほんまに人間は自分のことは自分で考え自分で決めてるのか。著者はそれらについて、ノーと言う。
 著者は、フランス在住の心理学の研究者。人間は主体的なのか、他者に影響されないで自分で意志し判断することができるのか、それらについては、認知科学社会心理学の実証的研究によれば、ことごとく否定されているそうだ。
 自分で判断し行動できるから、責任も発生する(判断能力がなければ、責任は問われない)。しかしそもそも自分で判断し行動するということ自体が偽物であるなら、そこに責任がついてまわる必要もなくなる。人間は環境や社会や集団に影響を受ける存在であり、そもそも自分で判断して行動するとは(認知科学のレベルでは)言い難く、それゆえ責任の所在はその行為者にはない、そういう議論だってたてられる。
 著者は、さまざまな心理学史上で有名な実験を例に挙げながら、人間の主体性に疑問を投げかける。
「自分のことは自分自身が一番よく知っていると言う。しかしこの常識は事実からほど遠く、一種の信仰にすぎない。」(16)
 たとえば、靴下の展示スタンドをスーパーマーケットに展示し、市場調査という口実のもとに商品の質を評価してもらう。靴下は4本かかっている。どれが一番いいですか、その理由は何ですか?と尋ねる。おおよそ右側にある靴下がいい評価を受けた。理由を尋ねると、人それぞれに、こちらの方が肌触りがいい、とか、丈夫そうだ、などのもっともらしい理由が返ってくる。けれども、実はその靴下はすべて色・形・肌触りなど同じものだったそうだ。いい靴下と思って選んだ理由は、ほんとのところ誰にもわからなかった。自分の判断の根拠でさえ、思い込みにすぎなかった。
 「行為・判断が形成される過程は本人も知ることができない。自らの行為・判断であってもその原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとく推測する他はない。「理由」がもっともらしく感じられるのは常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。しかし人間は理性的動物というよりも、合理化する動物だという方が実状に合っている。」(19)
 著者の言うところによれば、人間は意志してから行為するのではなく、行為してしまった後に、その行為の意味付けを行う。手を動かすというとき、普通なら、手を動かそうと意志し、それから手が動く。けれども脳神経生理学の実験によれば、まず手の運動を起こす指令が脳波に生じてしばらく時間が経過した後で意志が生じる、そしてまた少し経ってから手が実際に動く、というそうだ。もちろん時間経過はコンマ何秒のレベル。それでも、意志が意識に生じたとき、ものごとはすでに動きだしているのだそうだ。だからやはり、人間は根本的には自分の行動に自分で説明がつけられない。なぜそういう行動をとったか、それを説明することが社会的に要請されるから、自分の行為のやってしまった行為に後から意味づけをするということだそうだ。
 本書は、そういった認知心理学の話の他にも、なぜナチスによるユダヤ人大虐殺は起きたのか、普通の市民が、通常では決して手を貸すことのない犯罪行為に、なぜ手を貸していったのか、虐殺に加担した人々は、自分の意志や判断でそれを行ったのか、といった議論や、また、冤罪事件はなぜ起きるのか、あるいは現在の日本で死刑執行は、誰の責任と判断のもとで、どのようにとり行われているのか、そこに人間の自由意志はどのようにして働いているのか、あるいはむしろ、そういった場面でいかに人間の自由意志が働いていないのか、などについての検証があり、それらの話し一つ一つが興味深く、私たちの日常抱いている常識に挑戦するものがあり、とてもスリリングである。
 自律とか主体性などについて日頃からどうなんだろうなぁ、と思いめぐらしている人は、ちょっと本を手にとってパラパラ眺めてみるといいと思う。全体を通して読むのはしんどいかもしれないけど、興味ある部分はきっとあると思う。
 さてもう一つ、自律や主体性や自己責任を疑問に付す本書をぼくが推す理由をあげておこう。自立や自己決定が盛んに言われる中、先にも言ったように、その意味がよくわかんなくなっているという事態は確かにある。自分で決めるってどういうことなんだろ、とりあえず、自分で決めろと言われたから、とりあえず思いついたことを言ってみる、そんなこともしょっちゅうあり、一度立ち止まって、自立や自己決定ってなんだろうとゆっくり考えてみることはいいことだと思う。ただそればかりではなく、もし人間が、自分で意志してから行為する存在ではなく、行為してしまってから、その行為の意味を合理化する存在だとしたら、もしその合理化する(意味づけする)部分に障害のある人がいたら、その人はきわめてこの社会では不利な立場におかれるだろうな、と思うから、本書における議論が重要になってくるのだと、ぼくは思っている。
 何かを見ると、自分で制御する前に体が勝手に動いてしまう、という人は確かにいる。動いてしまう理由は自分ではわからない。まわりの人は、大人なんだから自分の行動には自分で責任をとれよ、という。しかし、本人には自分で自分の体が動いてしまう意味がわからない。わからないのに、罰するべきなのかどうなのか、あるいは社会から隔離すべきなのかどうなのか、本書ではそれらの問いに答えは出されていない。しかし、その際、もし本人を罰するとしたら、それは本人が悪いからではなく、社会の秩序維持にとってよくないことだから、つまりトラブル・事件がおきたことに対するけじめ、落とし前がつかないから、社会の秩序維持のために、制裁として本人を罰することになる、という立場をとる。
 本書でとられる見方によれば、自由意志や主体性というのは、言って見れば、誰にトラブルの落とし前をつけさせるかを追求し、その責任の所在を明確にするために社会的に要請される、ある種の虚構である。お前がやったことだから、お前が責任をとれ、と恫喝するための虚構である。やってしまったことに対して、本人には明確の理由や意図はなかなか見いだされない。
 「犯罪者の素質があったから犯罪者になるのではない。まるで単なる出来事のように本人の意志をすり抜けて犯罪行為が生ずる。しかしそこに社会は殺意を見いだし、犯人の主体的行為と認定する。彼らは自由意志で犯罪を行ったのだと社会秩序維持装置が宣言する。」(202)
 もし人間が意志してから行為するのでなく、行為してからその行為のもっともらしい理由を見つけるのだとしたら、それを説明するのが苦手な人にとっては現代社会はとてもすみにくい世の中だろう。またときに、自己責任論の名の下、現代の情報化社会の中では、バッシングやブログ炎上に見られるように、さして身に覚えのないことでも犯罪者や悪人に仕立て上げられ、スケープゴートにされることもある。誰かを見せしめに、憂さ晴らしに叩く、そうしたことが現代の人間たちも大好きだ。だれしも、なんらかの悪には手をそめているし、それがたまたま社会問題にされていないだけで、場合によってはスケープゴートに祭り上げられるかもしれない。そのとき、自分の責任の根拠を問われても、自分ではなんとも言い難いであろう。そう責められるから、自分が悪いことをやったんだ、と思うしかない。責任の不在。そして後から、責任はつくり出される。あなたを裁くために。
 この書は、そうした責任追及の社会構造をある意味疑問に付し、そして、そうした責任追及の意識からは決して表れてこない、「人間の絆の謎に迫ろう」(255)とした本である。

(JCIL機関紙「自由人」に掲載)


以下は、ただのメモ↓

「人間は外界の影響を受けながら、そしてたいていは明確な意識なしに行動する。意志に従って行動を選び取るのではなく、行動に応じた意識が後になってから形成される。」(199)
「つまり悪い行為だから我々は非難するのではなく、逆に社会的に非難される行為を我々は悪と呼ぶのだ。」(195)
「正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。」(166)
「私の行為の本質的性格のゆえに処罰が発生するのではない。行為がどんなものであるかによって処罰が生ずるのではない。その行為を禁ずる規則に反したという事実が処罰を生むのだ。」(164)
「ある行為の行為者に責任を負わせることをもって、事後的にその行為の原因としての(過去の)意志を構成するのだ。」(150)
「意志は各個人の内部に属する実体ではない。それは社会秩序を維持するために援用される虚構の物語なのだ。」(149)
「主体とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスを意味している」(22)
「行為・判断が形成される過程は本人も知ることができない。自らの行為・判断であってもその原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとく推測する他はない。「理由」がもっともらしく感じられるのは常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。しかし人間は理性的動物というよりも、合理化する動物だという方が実状に合っている。」(19)
「意識は行動の原因というよりも、逆に行動を正当化する機能を担う。意識が行動を決定するのではなく、行動が意識を形作るのだ。」(16)
「自分のことは自分自身が一番よく知っていると言う。しかしこの常識は事実からほど遠く、一種の信仰にすぎない。」(16)

自分で考え、自分で決めるから、自立しているというわけではない。むしろ、社会的に自立している、主体的だと認められている規範に従って行為することをすることで、自立していると言われる。