介助者の障害

いやぁ、9月の25〜27日にかなりの無理をしてしまい、体が悲鳴をあげてしまった。
いまだ回復はせず、体の内部、外部といろいろ調子が悪い。

25日(金)の夜、かりん燈の臨時会合があり、10月24日大阪集会の出演者全員そろっての打ち合わせ。
中身がめちゃ濃い議論になってしまった。
濃くてまたもや、闇の重力に足を引っ張られるような印象が残っている。

一人の女性の言葉が、最近この界隈の状況を変えつつあるような感じもしている。

家族とか女性とか障害とか、そうしたものにまつわる闇の重力、それに慈しみを持ちつつ、同時に抗って、そこから発せられる言葉。

25日の夜に、そのまわりについてしゃべり、27日(日)夕方にはその声を客席で聞いた。

一つの場で聞いているかぎり、ある一つの立場からの発言にしか聞こえないのだが、別の設定の場でその発言を聞くことにより、ようやくもう少し大きな社会の布置連関の中でのその発言の位置取りが見えてきた。

27日(日)は障害学会のシンポジウムだった。
確か、「障害、女性、貧困」というようなテーマ。
5人登壇していたがみな女性。

どうも企画者たちは、きちんとこれら3つのテーマの相互連関に関する認識を深められていなかったようだが、その発言が、クリアな概念認識としではなく、直感的な訴えにおいてではあるが、それらのテーマの結びつきをぐぐっと聞いている者に実感させた。

学会としては、異例の語り口であったろう。

しかし、その異例の語り口、もやもやした、ちゃんと表現できないものを自分の言葉で語っていくという語り口をみなの前で実践することで、学会にある風穴をあけたようにも思った。

その風穴は、それに続く研究者たちの言葉によってふさがれてしまった印象ももったが。

ともあれ、この3日、二晩酒を飲み続けて体を壊した3日間だったのであるが、そのトンネルをくぐる中で、何かが見えてきたような気になっているのも確かだ。

障害問題と女性問題は、ぼくの中ではどうしても同列に論じることができないものだった。
障害者問題の文脈に女性問題を入れようとして語る人々の言葉が、ぼくにはなかなかなじみのいかないものだった。

実際に、多くの場合は、やはりちょっと違うし、ぼくが思っている違和感を共有する人もいるので、あながちこちらの理解不足だけというわけでない。

どうもそれぞれの立場で、乱暴な表現や言葉遣いになってしまい、お互いに自分の意見を相手にわからせようとするだけなので、なかなか理解しあうのは難しいが、きめ細かく見ていけば、なるほど、通じるものもあるのではないか、と思うようになってきた。

でも、それは、難しいし、やはり場合によっては危険な議論。そういう認識も片方でもってないといけない。

それはそれとして、図式的には、

健常者/障害者
 男性/女性

という対立軸を並列的に眺めていてもよくわからない。議論はすれ違う。

そこで、

健常者性(男性性)/女性性/障害者性

と眺めてみる。しかもここでは、実際の男とか女とかではなく、男的なあり方(男性性)、女的なあり方(女性性)という言葉を使った。やっぱり男はあかんとか、乱暴な議論をされては困るから。さらにここで女性性と書いたのは、ケアの担い手役割とか母性とか、そういう意味ではない。それは、さまざまな事情で、時折働けなくなる身体のことを指す。つまり、ばりばり働ける身体(男性性)との比較で言ってみれば、不定期障害者的な身体のこと。つまりこれらを横に貫くのは「労働」あるいは「障害」という軸だ。

労働  健常者性(男性性)/女性性/障害者性  障害

そして実際の男、女、障害者は、この軸上のいずれにも位置することがある。
子育てするパパは中間の女性性のところに位置するのかもしれない。自立生活センターでばりばりに働く障害者は男性性のところに位置するのかもしれない。

まぁこれは、障害やジェンダーをめぐってああだこうだ言われている中で、それらを一つ筋立てて見るための一つの枠組みのあり方として提示しているのであって、これでもって複雑な議論を包括できるわけではないことは確か。

それでも、ここに障害者運動と介助者運動をつなぐキーを見るのはぼくだけだろうか。

ともあれ、こういう図式の上に以下の文章を重ね合わせてみよう。

健常者と呼ばれる人々から介助を受ける障害者と呼ばれる人々

この健常者と呼ばれる人々は病んでるらしい。

パニック障害なんです。

うつなんです。

不安障害なんです。

いろいろ、心病んでる。

この前は、私、発達障害やったみたいで…

と、言ってくる人がいた。

さすがに、おいおい、はじめっから言ってよねっ。と、思った。

こころの病にかかった人は、いろいろトラブルを引き起こしてくる。

トラブル、おこってから、実は、わたし。って…

正直、そんなんこと言われても…って思う。

こころが、疲れていたり、こころが病んでいたり、そんな時、働かんでもいいようなことになればいい。

休むことが、仕事しないことが悪いように思わされるこの世の中。

おかしいよね。

こころが壊れたら、休もう。

障害があるんなら、そのことどうしたらいいのか考えよう。

隠すことは、反則。

隠しても意味がない。

隠せば隠すほど問題が大きくなるだけ。


互いに自分の状況言い合って互いにいい時間にするようにしたらいい

すると、何かがすーとつながってくるような印象がある。

女性性に位置する部分は、女性問題というよりも、障害者問題に引きつけて考えた方がよいように思う。
つまりそこには、合理的配慮が必要なのである。

ちなみにこれはひろひろさんの文章でした。