『神無き月十番目の夜』

半年ほど前だったか、飯嶋和一の『出星前夜』を読んだ。
そのときの、心の底にどしっと重石をおとされたような印象が抜けず、今度は『神無き月十番目の夜』という小説を読んだ。

いずれも、時代背景は、戦国の世から、徳川の支配体制が確立していく時代の転換が舞台となっている。

片方は島原の乱を扱い、もう片方は、関ヶ原直後、常陸の国が水戸藩に再編されようとするさなかにおきた一村の村民による反乱暴動を描いている。

いずれも、反乱に加わった者たちの皆殺し、大虐殺で話が終わる。徳川体制が確立される際の、見せしめとして、村人たちの皆殺しが行われた。

舞台はいずれも、中世以来自治の伝統を誇ってきた一揆衆の村である。

その一揆衆の村が徳川の体制に編入され、自治の伝統が解体され、村々で守ってきた神、精神、心のよりどころが踏みにじられ、無きものにされていくさなかに、事件は起きた。

いずれもシステマティックな官僚支配体制における役人たちの腐敗が事件の要因であり、片方は過酷な年貢とりしまりと愚政、もう片方は民の心を踏みにじる検地の強行が引き金となる。

戦国の世に戦争を経験した者たちが、暴動よりは生き延びる道を探ろうとするのに対し、若衆が血気にはやり、剣をあげようとする構図も同じ。その若衆たちの先走った決起により、村に入った役人が殺され、事態が後戻りできなくなり、そうして、皆殺しの惨禍へと少しずつ向かっていく。

戦国の世から自治を守ってきた村々であり、平生農業に携わる村人たちもみな、すわ一大事となれば武器をもって自らの村を守る半農半士の一揆衆である。強い。しかし、徳川の威信をかけた圧倒的な武力征伐を前に、みな次々と打ち死んでいく。

その圧倒的描写がまず心を深くえぐる。

そしてまた、その全滅をかけた戦の中で耐え鍛えられる精神のありかの描写が、また心に深い錘をおとす。

その精神のありかの描写こそ、飯嶋和一が皆殺し・一村亡所という神の不在のただなかにおいて描き切ろうとした、歴史の闇の底からの叫び声なのであろう。

ふとぼくは、「神とは、内部では見えるが、外部では見えないような秘密を、私が守ることができるという可能性に付けられた名である」「見えない言葉そのもののおかげで、私が私のうちに、他者には見えない証人を持ちえたとき、私が神と呼ぶものがあるのだ」というジャック・デリダの言葉を思い出していた。

神は死んだ。神は見える神にとって代わられた。死んだ神は歴史の闇底に沈殿しつつ、重く深い響きによって人々を戦慄せしめている。