『ベーシックインカム入門』(山森亮)と『新しい貧困』(ジグムント・バウマン)

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

先日の2月22日に、
「このままでいいの?〜障害者の所得保障 ―障害者の地域生活と所得保障と所得保障のあり方を考える―」
と題して、第23回国際障害者年連続シンポジウムを行った。シンポジストとして、三澤了さん、山本創さん、片岡博さんなど、障害者の所得保障を語る上では欠かせない人々に参加していただいた。これまでの障害者の所得保障運動の歴史を振り返り、現状の所得保障制度(年金、手当て、生活保護等)の課題をみなで洗い出し、さらにこれから先の展望についても議論した。その際、展望の一つの方向として提案されていたのが、今回のシンポジウムにも参加された山森さんの提唱する「ベーシック・インカム(基本所得)」であった。ベーシックインカムとは、基本的な生存権保障として、すべての人に無条件に(老若男女、労働者/非労働者を問わず)ある一定額の生活費を給付するという制度構想のこと(たとえばすべての人に毎月15万円の年金を給付することを考えてもらえばいい)。
この考え方をはじめて聞くと、たいていの場合、えっ、働いている人やお金持ちにも給付するの?との疑問が起こる。(今回の麻生政権の定額給付金(すべての人に2万円の一時金を給付)に対しても同様の疑問・批判が起きている)
あるいは、ベーシックインカムが整ったら、働いて生活費を稼ぐ必要がなくなるので、働く人がいなくなるのではないか、たとえば介助者がいなくなるのではないか、なんて疑問をもつ人もいる。
あるいは、すべての人にそんなにお金をあげるとしたら財源はどうするの?みたいな疑問もある。
そうした素朴な疑問に対して、その疑問の出てくる理由のところから丁寧にこの山森さんの本『ベーシック・インカム入門』は答えてくれる。(現代の社会常識からすれば当然上のような疑問が出てくるわけであるが、丁寧に見ていけばむしろ多くの場合、その社会常識〈既成概念〉のほうに問題があるわけなのに、そこに私たちはなかなか気付かない。)とりわけこの本の特徴は、「ベーシック・インカム」について語るときのある種の「解放感」がしみじみとにじみ出ていることだと思う。なんというのか、ジョン・レノンの「イマジン」にあるような解放感。「想像してみて。天国なんてない、と♪ さあ想像してみて。みんながただ今を生きているって♪ 想像してみて。みんなが世界を分かち合うんだって♪」
その解放感の源は、本書の各所で紹介されている古今の思想家、活動家たちの言葉であろうか。マーチン・ルーサー・キング牧師、エーリッヒ・フロム、バートランド・ラッセル、トマス・ペイン、ガルブレイスアントニオ・ネグリなど、人類史の良心ともいえる人々が、ベーシックインカムに言及していることが紹介される。たとえば『自由からの逃走』で有名なエーリッヒ・フロムは「個人の自由が根本的に高められる」だろうとの理由で「普遍的な生存の保障」の方法としてベーシック・インカムを支持する。「人類史において人間の自由を制約してきたのは、支配者による生殺与奪の権力と、「自分に課せられた労働ならびに社会的生存の条件に服したがらないものにたいする餓死の恐怖」であったとし、ベーシック・インカムは後者を克服することによって自由を拡大するというのである」(p251)
もちろん、本書では理想的・理念的な話しばかりではなく、経済学的な話し、現実政策面での話しも紹介される。日本では今のところ突飛な発想に聞こえるが、実際のところ、ブラジル等ではすでにベーシック・インカムが法制化されているし、ヨーロッパの政党の中には綱領にベーシック・インカムを掲げているところもある。アイルランドでは政府がBI白書を提出している。
障害者の所得保障に関する議論もそうだが、今、現行の社会保障制度が行き詰まりをしめしているように思われる。新しい展望を開くという意味でも、ぜひ本書を手にとって読んでみて欲しい。
新しい貧困 労働消費主義ニュープア

新しい貧困 労働消費主義ニュープア

もう一冊の『新しい貧困』は、現行の社会保障制度の行き詰まりの理由について、ある見取り図をえる上ではきわめて有益な本。『新しい貧困』においても、最終的にはベーシック・インカムの発想が提案されているが、なぜそれが必要なのか、現状の社会において何が根本的な問題となっているかを見る上では、本書の記述は多いに参考になる。
障害者の所得保障に話をもどせば、なぜ障害者は、低レベルな基礎年金か、なけなしの手当てか、屈辱いっぱいの生活保護の中でしか生きれないのか、その理由が、直接障害者に言及されるわけではないが、本書の第一章「労働の意味 労働倫理の形成」で明瞭に語られる。
「この倫理〈19世紀に成立した労働倫理〉は、結局のところ、賃金労働によって支えられる生活であれば、どれほど悲惨な生活でも道徳的に優越していると主張した。そうした倫理的な規範で武装した改革の支持者たちは、社会が貧民に提供する、すべての「働かなくとも得られる」給付は「適切でない」という原則を公にし、その原則をより人間的な社会へと向かう非常に道徳的な歩みとみなすことができた。「適切でない」とは、賃金でなく給付に依存する人々の生活を、もっとも貧しい人々や雇用労働者の中でもっとも悲惨な人々の生活より魅力に欠けるものにしなければならないことを意味した・・・」(p28)
実際のところ、本来すべての人間が「尊厳ある生活への権利」をもっているとすれば、働かない人間が劣等処遇を受けるいわれはないわけである。それなのに現行の社会では「働かざるもの人にあらず」ということで、なぜか労働者のみが一人前の人間とみなされている。また、「労働」ないし「働き」には「賃金労働」以外の意味も含まれるはずであるが、なぜかたとえば家庭内での育児や家事は価値がないとみなされ、賃金労働のみが価値あるかのように私達は錯覚している。金のための、見返りを求める賃労働はむしろ価値がないのではないか、という疑問が出ても当然と思うが、なぜかあまり出てこない。また、賃金労働は、それが餓死への恐怖を背景にしている限りは、「身売り」であり「強制労働」でもあるのに、なぜかそれに従事することが人間として一人前とされている。そのへんをもう一度、考え直してみる必要があるのではないか。しょせん現代は歴史の一こまであって、士農工商という身分制度も過去のものであるのだから、ひょっとしたら賃金労働という労働市場への「身売り」も、あと百年もしたら過去のものになるのかもしれない。そのへんの感覚をつかみ、これからの社会の展望を考えていくためにも、先の『ベーシック・インカム入門』とならんで本書も手にとってみてほしい。『新しい貧困』は、その他にも、現代社会の一つのモードとなっている「消費主義」「消費社会」についての議論や、選別的給付の問題点(「貧しい人に対するサービスは常に貧しいサービスである」)、福祉国家から刑罰国家への流れ、あるいはグローバリズムとリストラ(たとえば派遣切り)、余剰労働力(労働市場からあぶれて廃棄される人々)などについても語られ、現代社会の問題状況を把握するのに多いに役立つ。そして最終章の結尾「労働倫理か、それとも生活の倫理か」では、新しい社会構想へ向けた視点の転換(「労働倫理に支配される賃労働中心から、人間としての立場や尊厳に基づく基本的権利と基本的保証を前提とすることへの視点の変換」)が説かれるわけだが、そのとき、人間の品位と尊厳を取り戻そうとする著者の意思が読者の胸に力強く響くことであろう。

〔日本自立生活センター機関紙『自由人』62号掲載〕