『差別感情の哲学』

『差別感情の哲学』中島義道 (2009年 講談社

差別感情の哲学

差別感情の哲学

 罪のない冗談の中に、何気ない誇りの中に、純粋な向上心の中に、差別の芽は潜み、それは放っておくと体内でぐんぐん生育していく。ボランティア活動で介護の老人から感謝されるそのときに、好きな人から結婚を申し込まれ飛び上がりたいほどの至福を感じているそのときに、わが子の寝顔を見つめながら至福を感じているそのときに、「他人」は見えなくなり、差別感情はむっくり頭をもち上げる。
 …
 すべての行為に差別感情がこびりついていることを認めない限り、自分は差別していないという確信に陥っている限り、自分は「正しい」と居直る限り、人は差別感情と真剣に向き合うことはないであろう。いかなる「聖域」もない。(p217-218

 本書のタイトルは、差別「感情」の哲学。なので、基本的に制度上の差別や差別的言動に対する取り締まり等を論じる本ではない。むしろ、あの人のことはイヤだな、キライだな、むかつく、イライラする、などのだれしもが自然にもつ感情について論じた本。たとえば、ある人や集団に出会うことで、露骨に差別的態度を見せないにしても、表面的には笑顔や無関心をよそおいつつ、それでも心の中ではイヤだな、近づきたくないな、できれば避けて通りたいな、などとどうしても動いてしまう自分たちの心の動きについて論じた本。わたしたちは、そうした心の動きについて、隠すことはできる、とりつくろうことはできる。けど、そうした心の動きを一切もたないとはだれも言い切れないと思うし、直接的な言動における差別を取り締まることができるとしても、(最悪の全体主義国家でないかぎり)そうした心の動きまでも取り締まることはできない。むしろそうした心の動きは、異常で追放されるべきものなのか、あるいは人間である以上だれしもがもたざるをえず、それといかにつきあうかを学んでいくのがいいのか、そうしたことについて書かれた本。

 なぜこの本を手にとったかについて一言。たとえイヤだなと思っても、人前で相手の人に失礼のないように自分の感情をとりつくろったり、よそおったりすることはままあることで、そうやって人々が社交的にふるまうことでこの「社会」は成立しているとも言える。けど、どうもそのとりつくろったり、よそおったりする部分に「障害」(?)をもつ人もいて、自分の気持ちがそのまま行動にあらわれてしまう。キライだな、と思ったら、「出ていけ!」という言動に直接つながってしまう。それはよくないよ、と人から言われて、ある程度は抑えることができても、どうしてもそうした感情‐行動のコントロールが苦手な人もいる。いわば「差別感情」がむき出しになってあらわれてしまいやすい人で、もちろんわたしたちの多くは、それはいけないよ、と言うのだけど、それでも他方で、むしろそうした感情を隠したり、とりつくろったりするのは「健常者」的で、そっちの方がずる賢いのであって、「あの人はむしろ人間的なんだ、人間そのものなんだ」と語り合うことさえある。それでも、そうした差別感情がさらに暴力にまで発展することもあり、他者を傷つけることだってある。そこで、そうした差別感情といかに向き合っていくのか。そうした差別感情を表に出してしまう人は、この世から追放されるべきなのか、刑務所や施設に閉じ込めておとなしくさせるのがいいのか、そうしたことが重たい課題としてわたしたちの前に立ちはだかる。人間の根っこにある差別感情はわからないでもない。「あいつはいない方がいいな」、「あいつがいるからオレは浮かばれないのだ」、そうした気持ちは当然だれしももつと思う。要はそれを隠す能力があるかないか、あるいは、自分の感情を隠しつつ小出しに表現することで自分の地位を確かにしようとする能力があるかどうか、それによって社会に適合できるかどうかが決まる。しかし、それでいいのだろうか?

 まぁ、そんなこんなの心の動きの中から、この本を手にとった。著者の中島義道はすでに数多くの本を出している著名なエッセイスト。哲学専攻で、もとは(?)優秀なカント研究者。本書の差別感情論も、基本的には哲学的立場からの議論であるが、かなりこなれた語り口であって、読みやすい。哲学は人間の感情をこんなふうに分析するのか、みたいなことに興味がある方もパラパラと本書を読んでみるのもいいかもしれない。

 ただ、差別現象そのものに対する著者の認識はそれほど深くなく、差別撤廃論に対する認識不足による安易な誤解もいくつか見受けられる。(たとえば、障害者や在日に「特権」という言葉を使う安易さ、人種差別撤廃論者やウーマンリブ推進者に「冷静な判断を示す人」はいないと言い切る認識不足など。著者は横塚晃一や田中美津を読んでいないのだろうか?) 基本的に、もろもろの差別現象に対する著者の立場は世間一般の人と大差なく、後ろめたさを感じつつ「敬して遠ざける」という態度のようであり、そこに物足りなさを感じる人もいるだろうし、わりと書きなぐったエッセイという感じで、あんまり丁寧・丹念な議論というわけでもないが、それでも一般に「差別感情」という人間感情を哲学的に分析するとどうなのか、そんなところが気になったら本書を手に取ってみてもいいかもしれない。


 さて、本書の特徴をあげる。第一章で「他人に対する否定的感情」が取り上げられ、順番に「1.不快、2.嫌悪、3.軽蔑、4.恐怖」が論じられていく。ここでは、他人をイヤだな、うっとおしいな、ダメなやつだな、だらしないな、こわくて近寄ってほしくないな、など通常の否定的感情が取り上げられるので、わりと差別論としては常識的に妥当な議論となっている。けど、本書のいいところは次の第2章「自分自身に対する肯定的感情」にかなり力を入れているところ。

 これまで[第一章で]、「不快」、「嫌悪」、「恐怖」という他人に対する否定的感情を差別の動因として考察してきた。しかし、こればかりではなく、われわれの抱く自分自身に対する肯定的感情も、同じように、いやそれ以上に差別の動因を形成する。単純にある他人を不快に感じたり、嫌ったり、軽蔑したり、恐れるわけではない。じつに、その背景には自分自身を誇りに思いたい、優越感をもちたい、よい集団に属したい、つまり「よりよい者になりたい」という願望がぴったり貼りついているのだ。(p114)

 こう言って、第2章では、一般に常識的にはもつことが称賛される「1.誇り、2.自尊心、3.帰属意識、4.向上心」などの感情が取り上げられる。「自尊心や誇りをもちたい」「いいことをしている」「いいことをしたい」「よりよい者になりたい」などの社会的に肯定される願望が、かえって差別感情の動因となっているということだ。偉くなりたいとか、自分を認めさせたいとか、他人のダメな部分が目にあまるので教育して直してあげたいとかいった自然な気持ちが、他人を差別することにつながっていく。自分に誇りをもちたいという気持ちはあいつよりはわたしの方ができるという気持ちと表裏一体である。自分が幸せだという感情は、他者の不幸と表裏一体である。あいつを追放したいという気持ちは、あいつさえいなければわたしが浮かび上がるという気持ちと表裏一体である。

 冒頭に引用した言葉をもう一度読んでほしい。「罪のない冗談の中に、何気ない誇りの中に、純粋な向上心の中に、差別の芽は潜み、…」こうして著者は、人間の「すべての行為に差別感情がこびりついていることを認めない限り、…人は差別感情と真剣に向き合うことはないであろう」と言う。自分に対する誇りや自信が、他者の差別と結びついている限り、どこまでも自分たちの行動や感情には他人を差別したいという感情がつきまとっている。(動物行動学や精神病理学は、その差別感情こそ、人間の文化の源だと説くらしい。無批判に鵜呑みにしてはいけないが。)ともあれ、著者の結論としては自分の中には他人を「差別したい自分」もいれば、もちろん「差別したくない自分」もいるわけで、「差別したい自分」を消去してしまうのではなく、むしろその両者のせめぎあいを正確に測定することが必要だ、という。「差別したい自分」から目をそむけることなく、「差別したい自分」の声に絶えず耳を傾けることが、「差別感情と真剣に向き合う」ことだ、と言う。


 再び、本書を手にとった動機に立ち返る。「差別したい自分」をとりつくろって隠すことができず、それを人前でさらけ出してしまう人がいる。そしてそれは時に他者への抑圧・暴力につながることもある。もちろん、たとえば「障害」だからという理由でそれをそのまま肯定できないと思うが、しかし当然本人も他者からの注意や指導によって、「差別したい自分」の存在に苦しむ。答えはむろん見つからないが、差別感情と真剣に向き合うということは、(その感情がだれのものであれ)そうした差別したいという気持ちと差別してはいけないという気持ちのせめぎあいの間にたって、その調整に身をもってあたるということではないだろうか。