施設的なもの

昨日、おとついと、かなり疲れていたので、気持ちの赴くままに文章を書いてしまっている。

かなり激しい口調できわめて批判的だけど、もちろん相手側(施設側)の言い分もあろう。

ただ、施設内で行われていることは、やはりぼくが地域で見慣れている光景とあまりにもギャップが大きい。

施設内が密室であることは変わりないので、やはり理不尽な点は多い。

成年後見人。

普通、身体障害者成年後見人がつくことはないと言われている。

けど、なぜか施設を出て自立しようとしているある重度障害者には、家族が成年後見人としてついてしまった。

補佐でも補助でもなく、後見。(よく知らないけど、選挙権もはく奪されるらしい)

重度の言語障害が理由だという。

確かに言語障害(構音障害)はきわめて重く、普通に耳ではほとんど聞き取れない。

ただ、ぼくが必死で透明文字盤を使ってその人の言葉を読み取っているにもかかわらず、その透明文字盤を指して、「こんなもの使わなくても私たちは彼と十分にコミュニケーションがとれているんです。」とおっしゃった。

それなのに、なぜか重度の言語障害が理由による後見を容認している。

後見制度は、いちおう家裁か何かの担当者が本人に状態を確認するらしいのだけど、本人はそんな人きていないという。

知り合いの弁護士に聞いたところ、ひょっとしたら医師の意見書だけですましているかもしれない、とか。(ちなみにその施設は大病院の系列)

ともかく本人は後見はいらない、やめてくれ、と(少なくともぼくたちには)明確な意思を発している。(関係者すべてがそのことは知っているはず)

事実はとりあえずのところつまびらかでないけど、いろいろと不透明な部分が多い。

ただ、「人権を尊重し、主体性と自主性を守る」と建物に大きく書いてある施設の人々が、普通に言語障害が重いという理由だけで、後見を容認していいものかどうか。

はたして、コミュニケーションの部分に関して、どれほどの支援をしたのだろうか?

後見制度により、多くの権利がはく奪されるのだから、このケースはやはり権利擁護の観点から人権の問題として考えないといけない。


さてさて、夕食のとき、施設について書いた昨日の記事のことを考えていた。

なんか職員の人格攻撃をしている感じがして、ぼくもそれはいやだなぁ、と思っていた。

それで思っていたのは、やはり彼らは何も知らないんだな、ということ。

つまり、知らないから、重度の障害者でも地域で生活しているということを知らないから、ああいった管理・指導的な態度になる。

何も知らないから、ぼくらとの間にきわめて大きなギャップが生まれる。

別に職員さんたちは、どこにでもいる普通の人たち。

妙に指導的・威圧的な人もいるけど、中にはいい感じの人も少なからずいる。

だから、いろいろと知ってほしいと思う。

ぼくは外出支援をしているけど、職員の中には、障害者が介助付きでどのように電車に乗るのかということさえ、知らない人もいる。(みんな車に頼るので)

地域で障害者が生きていくということがどういうことか、知らない人が大勢いる。

障害者の自立生活がどういうものか、やっぱり実際に介助に入って経験してほしいと思う。

そうしたら、障害者の自立・主体性・自主性についての考えは、今とは違ったものとなるだろう。

介護福祉士の勉強とかでも、ともかくそういうことをきちんと教えてほしい。

厚生労働省の担当者なんかは、新任の際、いちおう自立生活をしている障害者のお宅を訪問することになっている。

だから、それなりの理解がある。

けど、地域レベルでは、まだまだ。

特に施設で働く人には、地域での自立生活に関わる経験をしてほしいと思う。

それこそが、介護職員の研修なんだと思う。

そうやって、障害者の自立って可能なんだ、というイメージをつくっていってほしいと思う。

政策にしたっていい。

施設職員は、地域で生きることができなくなった最重度の障害者相手の仕事であり、それでもなおかつそうした重度者の地域移行が彼らの仕事なのだから、障害者の地域生活について熟知している人でなければ務まらない。
だから必ず、自立障害者の介助経験を有すること、みたいな規定をつくってもいい。

とりわけ、今の施設管理者、理事長その他は、必ず自立障害者の生活に関わりをもつこと、という義務をつけたっていい。


ところで、単純に、昨日までのぼくの書き方では、施設というものを全否定している書き方になっているが、もう一つ別の話し、ある知的障害者との格闘の中では、さすがにぼくも彼はもう施設しかないのでは、みたいな施設(あるいは病院、監獄)の二文字が頭をよぎっていた。

やはり、人というのは、ほんまにどうしようもなく手がつけられなくなるときだったあるのだと思う。

完全に我を忘れ、激しい衝動・欲情がそのまま表れ、顔のかたちが原形をとどめずにまるでゾンビのような顔になることもある。

ほんまにどうしようもない。

それがもしずっと続くのだとしたら、ほんまにどうしようもない。

「コレガ人間ナノデス  人間ノカオナノデス」(原民喜

そうした極限状態においては、施設もありうるのかもしれない。

そしてだからこそ、そのときこそ、人間性の闇を深く凝視する経験に根差した関わりが必要なのだと思う。

けど、もちろんほとんどのケースは、社会のあり方や人々の気のもちようで、何らか耐えうるものなんだと思う。

そして、そうした耐久性のある社会を目指していくことが必要なんだと思う。


ちなみに、表題で書いた「施設的なもの」。

この記事を書く前は、施設的なものが、この地域社会にも忍び込み始めているなぁ、ということを書こうと思っていた。

いわゆるアドルフ・ラツカの言う「動く施設」(地域での事業所管理のもとでのホームヘルプサービス)。

実際のところ、施設の体制というのは一種の官僚組織だし、会社も学校も、やはり「施設的なもの」を有している。

自立障害者たちは、形ある施設のみならず、「施設的なもの」に反対して、自分たちの力で生きてきたが、今は、どちらかというと形ある施設はだいぶ減ってきているのだけど、やはり「施設的なもの」がこの地域社会にも浸透しはじめてきている。

そうしたものを批判していく力を養っていきたいな、と思っているのだけど、まぁともかく、今日のところは、何か逆説めいているのだけど、「ぼくは施設職員の奮起に期待している」という言葉で終わることにしよう。