ケア研(土)と生きた思想家(日)

11月21日(土)に立命館生存学プロジェクトのケア研に参加した。
前田拓也さんの『介助現場の社会学』を題材に、著者含め4人+司会者で座談会を行った。
前日も朝まで飲んでしまったので、けっこうふらふらだったけど、ともかく本を読みとおして、メモをとってみて、その上で何人かでしゃべる機会をもてたので、いろいろ参考になった。
企画者の安部さんに感謝。
学者系院生の規範論、制度論には、正直距離を感じた。ただそれを感じることができただけでもありがたい。距離感から自分の位置がわかるような気が。。。
運動にかかわり、なにごとかをどうにかしていきたいと思っている人々は、まだやっぱり規範論、制度論の手前にいる。その人々の土壌があり、それを踏まえた上で、はじめて規範や制度も語っていくもんじゃないのかなぁ。
いきなり、そっちにいっちゃうと、ちょっと乱暴な、筋は通ってるのかもしれないけど、もろもろの豊かさをそぎおとしてしまう議論になっちゃう。
もちろんそちらにはそちらの文脈なり、たたかう相手がいるのかもしれないけど。

翌日は、知り合いの紹介で、とある介護者・フェミニストに出会った。
お名前だけはうかがっていたが、中途半端な知り方だったので、少々緊張した。
話し始めもぎくしゃくしていた。
ぎくしゃくしていたけど、だんだん共通の話しの地盤が成立していき、とてもとても豊かな話しができるようになっていった。
自立の話し、青い芝とCILの話し、ピープルの話し、介護者の主体の話し、サバイバーの話し、ハンメの話し、痛みと赦しの話し、闇と光の話しなどなど、昼過ぎから5時間、とても希有な時間を共有し、過ごすことができた。
これまで、フェミニストと呼ばれる方々に何名かお会いしてきたけど、はじめて「本物」のフェミニストと感じた。
はじめて(こういう表現が適切かどうかは知らないけど)、「女性」という他者に出会った。
ある「障害者」に出会ったとき、そこではじめて「障害者」という他者に出会ったときの経験に近い。
それは、ある「畏れ」の念とともに自分を揺るがし、そうして生じる畏敬の感情に近いのだろうか。
障害者なり、女性なりを「底」につきぬけ、そしてある種の普遍性に到達する。横塚晃一はそうした思想の持ち主だったと思うし、昨日会った方も、そうした実践、葛藤、生きざまを示していると思った。
文章を書くタイプではなく、生きた思想家に出会った、という印象。
ある自立障害者の介護を10数年続けているが、そこでの介護の思想は、やはりCIL系介助者とは一線を画す。

原義としての〈介助者〉、転義としての「介助者」とおとついのメモに書いたけど、この土日の経験は、その差異をある程度明白に認識できた気がする。

以下、土曜のケア研用のメモ。(自分用にアップしておきます。)


○手足論と〈介助者〉の自覚
「障害者の自己決定に関して、他者としての介助者が手段の確保というレベルで大きく影響して」いる。(p65)
「介助者は、自らが利用者の道具であることを自覚しながら、同時にそれぞれの立場やアイデンティティをもった「何者か」として障害者の生活に介入しているのだ。だから、介助者は「ノーバディ」ではいられない。介助者を単なる手足としてのみ語ることは、健常者を「ノーバディーでいられる」という「特権性」から引きずり下ろす営みであったはずの「自立生活」を巡る議論において、介助者を再び「ノーバディー」として位置づけることに等しいのだ。」(p81)
「介助者は「ノーバディ」としての健常者などではなく、現に介助の場において、アイデンティティやポジションをもった「何者か」として「障害者の自己決定」に介入してしまっている。そのことに自覚的であるなら、なおのこと「介助」をノーバディーとして語ることはできない。」(p83)
「だから、求められるのは、「介助者のリアリティ」を議論から排除することではなく、介助者にアイデンティティやポジションを自覚させた上でむしろ積極的に語らせることであり、また介助者もそのように語るべきなのだ」(p84)
(障害者という主体も完成したものではない。障害者側からの自己(非)決定の記述も望まれる?)


○違和感:「”社会をまるごと経験すること”としての介助」←通常は、言われたことを丁寧にやるだけでそこまで考えずにすんでいる。利用者の生活も、そこまで考えてもらわなくても十分にまわる。介助者も介助の仕事の時間を離れたら自分の時間がまっている。切り分け。

距離をとったままでも(無自覚なままでも)仕事は可能。すべてを職場の作法と受け止める。自分の日常にはもちこまない。労働力の商品化。
多くの人は、障害者という他者との関わりの「まるごとの経験」をあえてシャットアウトする。軽く流す。
健全者性の脱構築という意義をもたずに、生活のためにたんたんと仕事をこなす。(→マニュアル化へ?)
「介助者は、技術を通して障害者を理解したと思った途端、スルリと即興的にズラされ、かわされてしまう。」(P233)←マニュアル化が客の要望としたら?
施設職員の手を感じた=あっ、この利用者にはあんまりなめらかにやらない方がいいんだな。ワン・ノブ・ゼム。施設職員の手の使い分け。
介助サービスにおいて客の要求にあわせること/健全者性の脱構築 ←別の議論?

○出会い=介助者になる=健全者性の脱構築

〈介助者〉(原義)その場その場で行為遂行的に構成される主体、まず関係的概念

「介助者」(転義)固定的な存在、実体概念

「われわれの暮らしは、常に/すでに、介助者研修の場である。そうして、重要なのは、手足の淀みを契機として聞くことへの志向を開き、介助者を「研修中の身」へと何度も何度も立ち返らせることであるということになる。」(p240)


○「自覚」を介助労働の規範に組み込むかどうか。

「大事なのは本来は利用者が片付けるべきこと、利用者が面倒くさくてやらないことを私が代わりにやってあげているというふうに勘違いしないことです。部屋を片付けたいのはその利用者ではなく、介護者である自分なのです。」(『良い支援?』p189)
「逆に見ていて嫌な介護は、一見利用者に聞きながら利用者を満足させているように見えて、実は言葉巧みに介護者が利用者を自分のペースに付き合わせているような場面です。」(同p190)

○自己決定、縁を切る、生活の継続(生活の中心と周辺)
「だから、CILという場でおこなわれる有償の介助は、障害者と介助者とのあいだの「縁を切る」ことが前提とされており、また、そのことは同時に、介助者がいつかそのCIlを去っていくことが織り込み済みであることを示してもいよう。」(p289)←ほんまかな?
「時給制では良い介護者は育たない」(同p215)
生活の継続性の中心を担う介護者、その責任

ケア論メモ

自分用のメモです。
以下は、堀田聡子さんの
http://web.iss.u-tokyo.ac.jp/jinzai/7-5.pdf
からの引用。

Hochshild[1983]は、客室乗務員をとりあげて、肉体労働や頭脳労働に加えて職場において発揮するよう求められる自己の感情の管理を「感情労働」とよんだが、Himmelweit[1999]は、感情労働のなかでも、?介護には、介護される者に対して気遣う感情ないし態度の側面と、身体を使った活動ないし労働の側面が備わっており、?常に自分の感情をコントロールし、要介護者に対して細やかな気遣いを
示すことが要求され、?かつ、要介護者との長期的な関係を保たなければならないため、とくに感情の管理が困難であると述べている。利用者との良好な関係のもとでは、ヘルパーが利用者とのあいだで互いにケアをしあう関係を享受できることについては第?節で述べたとおりである。しかしヘルパーの仕事に対する理解が低い利用者がいること、「利用者の方々も良い方ばかりではないので精神的にもつらい仕事です(a)」との指摘がみられたように、また人と人であるからこそ当然のことながら、良好な関係が築けない・維持できないこともあろう10。ところが、心のケアを重視し、本来的に他者に関心を持たずにいられない、「ケアしたい欲求」をもったヘルパーは、良好な関係を持つことができない利用者のもとでも、困難な感情労働を実践しようとする。ここにバーンアウトなどの心理的疲弊の症状が現われるものと考えられる。内藤[1991:126]は次のように述べる。「世話、養育、配慮などを含むものとしての「ケア役割」は、いわば、他者の欲求を満たす役割である。人が自分を「ケア役割」に集約していくことの怖さとは、自分の思慮や行為の適否が、専らケアを受ける相手が満足したか否か、すなわち他者の判断によって評価される、ということである。・・・自分の精神を他者に預けてしまうほど悲惨なことはない。もちろんケア(世話、養育、配慮など)は、人間に不可欠な、価値ある資質・作用だが、他の可能性、他の側面が育てられないまま、ケア専担になることが怖いと思うのである。ケアは、他の側面と共存し、他の側面に支えられて初めて、自他を生かすものとなり得るのではないか」。決してケアに没入しない、自分の精神を他者に預けてしまわない態度が必要なのである。ここで「ヘルパーの仕事とは」に対する興味深い回答をひいておく。「(ヘルパーの仕事とは)その人の人生に深くかかわる仕事であると思う。しかしあくまで他人である。その一線を自分にきちんと引きしかもその人の生活を側面から支える重要な仕事である(b)」

ヒンメルワイトの意見は、渋谷の『魂の労働』にも出ている。
介護における「気遣い」→これはCILの側から見てみてみるとおもしろい。
介助にはあえて「気遣い」はいらない。それが余計。庇護の源。障害者側の責任の不在。障害者の自己責任によりかえって介助者は感情労働から守られる。けど、介助者はやりがいを見つけにくくなくなる。
渋谷「産業労働者が自己の労働を、自己の感情とは切り離すことのできる〈商品〉として扱うのに対して、介護労働や感情労働に従事する者は、介護される側〈顧客〉との長期、短期的な信頼関係にコミットしているがゆえに、十全にその感情労働を商品化することができない。」(p30-31)
手足論との接続。
ただ、手足、商品だけでいいのかどうか。
労働を感情から切り離すのがいいのかどうか。
全人ケアと、生活の一部を「側面」から支える介助。(介助者の立場。全人的関わりのとき、生活の一部を支えるとき。混同しやすい。ケアしてあげちゃいたい。燃え尽きor思う通りにいってくれないことへのいらだち・抑圧。)
障害者の自己責任、自己管理能力との兼ね合い。気づかいを要求されることと、なしですませられること。
商品とした場合、脱中心化している現状でのやりきれなさ。つながりの不在。顧客による経営管理
感情を動員させるのでもなく、個々ばらばらに孤立化させるのでもなく、どのようなしかけ、工夫が必要か。
脱中心化、孤立化の戦略(パーソナルアシスタンス)と介助者の気持ち、志。
介助者は何のためか。介護者のため、障害者のため、社会のため。個人の自由と社会の多様性、共同性。
「ただの介助者」という立場(つながりの不在。退出可能性)。サービス提供責任者の立場(派遣のストレス)。CIL健常者職員の立場。

「ケアしたい欲求」→弱い人を世話してあげたい? これもCILでは否定される。
ケアや気遣いではなく、むしろ他の者と平等な権利保障。そのもとでの、介助。

「ケアしたい欲求」については以下↓

その後、いまや「ケア論」の古典ともいわれるMayeroff[1971]は、ケアの本質を「私は補充関係にある対象を見い出し、その成長を助けていくことを通して、自己の生の意味を発見し創造していく。そしてその対象をケアすることにおいて、“場にいる(In-Place)”ことにおいて、私は生の意味を十全に生きるのである」とあらわしているが、これはやや抽象度が高い。
自己と道徳性、葛藤と選択について語る女性の声に耳を傾け、自律した個人と抽象的な道徳観からなる男性的な「正義の倫理」に対比して、愛情と仕事両面における自己と他者の感情による結びつきと道徳的思考を中心とする女性的な「世話の倫理(ethicof care)」を提唱したのが、キャロル・ギリガンの『もうひとつの声−心理学理論と女性の発達』である。これによれば、「世話の倫理」とは、「すべての人が他者から応えられ、仲間とみなされ、誰もひとり取り残されたり傷つけられたりしてはならない(Gilligan[1982:63])」という見解であり、以後のケアをめぐる倫理学の火付け役となった。
最後に、広井[2000]をみておこう。これによれば、人間は際立って「社会性」の強い生き物であり、いわば本来的に(だれかを)「ケアしたい欲求」をもっている。そして他者とのケアのかかわりを通じて、ケアする人自身がある力を得たり、自分という存在の確認をしたりするという。
このようにみてくると、人間は、だれかを、他者を、ケアすることによって、自分の存在を確認し、その生を十全に生きることができる生き物だと考えることができそうである。
本来的に「ケアしたい欲求」をもったヘルパーが、利用者を、自らの補充関係にある対象と認め、その対象をケアする――気にかけ、心配し、成長を助け、そして応える――こと、すなわち心のケアを重視することは、人間として、いわば本能的ないとなみともいえよう。

ケアしたい欲求をもし否定したとして、その上での「社会性」、絆を何に見るのか。

施設と地域

またまた思いついたことを。

施設と地域というとき、昔は全然別物の世界を指していたけど、ポストモダンの文脈からすれば次第に意味が薄れていってるのかなぁ、そんなことも思っていた。

施設の地域への開放と、地域の施設化・病棟化とは同時並行的に言われていて、それで確かに同様の事態の進展が起きているような気がする。

介助者の脱中心化という流れにしても、確かに施設職員も利用者主体のもとに従属化しつつあるような感じがする。

以前、ピープル京都のメンバーとある知的障害者施設にいったとき、対応してくれた職員の苦渋の顔を思い出す。
「入所者はやっぱり職員さんのことを先生と呼んでるのですか」との質問に対し、苦渋の表情を浮かべて、
「それはやめようという風にはしてるんです。でも、昔からいる人はそれが癖になっていて…」というような返答が返ってきた。

ソーシャルワーカーが専門家としての権威をもつということは徹底的に反省されて、そこに脱中心化が起こっている。by三島

(もちろん、そうした傾向に対する反応として、たとえば教育現場ではプロ教師の会のように教師の権威復権を説く動きもある。介助者や介護者の反応もさまざまで、医師や看護師の権威によりつこうとする人、介護職の専門化と権威復権を目指そうとする人、あるいは割り切ってサービスに徹しようとする人、思いやりを忘れず親身に対応しようとする人など様々である。難しいのは、消費主体化が進展しているため、労働者の脱中心化だけでは対応しきれなくなっている点である。それに対応するための岡田の中間団体論や前田6章の組織論はだいぶ参考になると思う。)

ポストフォーディズム時代における生=労働の文脈、生産主義が工場内にとどまらず、社会全体に展開しているという見方、そして消費社会・情報化社会における大衆の消費主体化・情報消費主体化、さらにサービス業に代表される感情労働の進展に見られる労働の女性化といった動向をみると、施設と地域という枠組みの境目が揺らぎ始めているように思う。
さらに、またまた大上段に構えた議論だが、生きづらい人の増加、軽度発達障害者や軽度精神障害者、そして月40時間労働に耐えられない身体の持ち主の増加の傾向は、障害者/健常者の境目も崩れていっていることの兆候だとも思う。

ふっきれ

とりあえずどっかでふっきれないとな、と思う。

昔の概念思考、概念パズル合わせの悪癖がぬけていないので、なかなか語りだすことができない。

今日は京大生協で2冊本を買ってしまった。
『人間形成にとって共同体とは何か〜自立を育む他律の条件』
『自己形成の心理学〜他者の森をかけ抜けて自己になる』

どっちも似たような内容で、一方は教育学の観点から、一方は発達心理学の観点から、自己が根本的に他者とか共同体の慣習・規範とかを通じて形成されることを論じている。
最近、こんなことに関心をもってばっかなんだなぁ。

昨夜、『責任と虚構』の書評おもしろかったよ、という人と話してたら、「でも、社会学の分野ではもうずっと昔から常識なんだけどね」ということをおっしゃっていた。
60才くらいのピープル支援者。来年のピープル全国大会のために、勤めていた養護学校を早期退職してしまった妙な人。京大社会学出身。

今日本屋で眺めていても、教育学でも心理学でも確かに、自己の形成が根源的に他者や環境によっているということは今では普通の議論なんだなぁ、と思った。

ソーシャルワークの分野でも、90年代からフーコーに依拠する反省理論が欧米ではかなりはやっているそうだ。by三島

介助というのも、明らかに、ポストモダンの脱中心化の文脈に位置づけられそうで、時代の流れからしたら、そういうところに位置づけて論を運んで行くのも確かにありなんだなぁ、とも思った。

ただ、まぁ、そういう作業をするにはあまりにも勉強不足なため、とりあえずは、どっかでふっきれて、自分のあり様を言葉にしていかないとなぁ、と思う。

ちょっといけてる介助者、あうんの呼吸で介助をしている人々のことを思っていたら、そういえば、介助者の中には、兄弟に障害をもった人がけっこういるなぁとも思っていた。

「他者の森をかけ抜けて自己になる」というとき、その他者の中にどれだけ多様な障害者がいるか、そしてその他者の中に介助・介護を必要とする人がどれだけいるか、そういう経験を通じて形成された自己というのは、今の健常者とはだいぶ違ったものになるだろうなぁ、と思っていた。

これからは、いやがおうでも、介助・介護の経験を社会はつんでいかないといけなくて、当然それを専門家だけの閉じられた管理施設の中に閉じ込めておいてはいけなくて、介助・介護が私たちの経験の根底に当り前のものとして存在するようにならないといけない。

それにしては、今のところ、そうした当り前の経験はまだ言説化されていなくて、特に脱中心化された介助者の経験というのはほとんど言葉にされていない。

「介助者たちはどう生きていくのか」という主題は、今後自然と成立していくものなのかもしれない。けどそれぞれの段階でやはり何か言葉にされていく必要もあるのかもしれない。

とりあえず、今のところ、ほとんどそうしたものは存在していないから、なんでもいいから言葉にしていってみようかな、そんなふうにちょっとふっきれた気持ちで構えをとってみようかな、そんなことを思った。

『介助現場の社会学』をパラパラ

前田拓也の『介助現場の社会学』を30分ほど、パラパラめくった。

丁寧に議論されていて、とてもおもしろい。

今度研究会があるからそれまでにちゃんと読んでおかないと。

「ざわめく自身の身体を通じて社会を再発見すること。」(p331)なんてなかなか素敵なフレーズだ。

山下さんが、この前のかりん燈集会で強調していたグループ・ゴリラのパンフレットの表題「身体で未来を視よう」と同じだ。30年前のこの思想を、前田さんは、この現在において「介助者になりゆくプロセス」と捉えた。

CIL運動における健常者のあり方についての、これが一つの現代的な表現なんだろう。

(「なりゆく」と表現したことからわかるように、<介助者>は、その場その場で行為遂行的に構成される主体なのであり、決して固定的な存在ではない。その意味で<介助者>は、まず関係的概念であって、実体概念ではありえない。障害者の自立生活とは、介助を利用することに<によって>ではなく、介助者と関係を取り結ぶこと<において>暮らすことなのであった。逆に介助者は、障害者の介助をすること<によって>介助者になるのではなく、障害者と関係を取り結ぶこと<において>介助者になるのでもある。」p321 ←秀逸だ )

ぼくがもっとも興味深かったのは6章のCILコミュニティ論。

「CILというコミュニティを身体障害者独自の文化の基盤として、障害者の実践のみに注目するのではなく、運営の中心を担う障害者はもとより、介助者/健常者とのを含めたさまざまな人々との協力、対立、妥協、協調や折衝といった社会的実践の交錯を可能にする場として捉える必要があるはずなのだ。」(p294-295)

前田さんの上の提言は、おそらくもっともっと知らされていく必要があるだろう。

おそらく、この書物は、メインストリーム協会という希有な団体において成立しえた貴重なドキュメントである。

(登録)介助者をして、そのコミュニティの正統なメンバーとして意識せしめ、さらに介助者をして「介助者になる」ことの意義を気づかしめることは、残念ながら並のCILではできない。

多くの場合、「介助者になる」とはかえって運動から距離をおくということだし、それが一つの社会的実践だとはなかなか位置づけられていない。どちらかといえば、社会を向くのではなく、障害者の私秘的なブラックゾーンに入りこむことである。介助を社会に開かせることは、なかなかできない。介助は多くの場合、閉じていく。

開かせる方向でもっていくメインストリームの実践はやはりすごい。それは当事者主体ではなく、むしろそこから社会に触手をはりめぐらせてできた混合的な複合体なのだと思う。

癒し系

今日は誕生日だった。

JCILのメンバーがお誕生日会をやってくれた。

別の会議も重なっていたので、あまり盛大ではなかったけど。

今日お誕生日なんだよ、とある人が広めてくれて、そしたら別のある人がじゃぁお祝いしないと、私が幹事をしますっ!と言ってくれた。

それだけで、なんとなくうれしかった。

最近事務所の雰囲気がいい気がする。

きりきりいきりたっていた会議も、最近は和やかだ。

いろいろあるけど、協力してやってけれたらいい。

自立、自立、と言っても、すぐには通用しない人はたくさんいる。

それでも、どうやら団体の中ではなにがしかの役目があるようだ。

癒し系の障害者が二人。自己決定系からすれば、明らかに外れているけど(笑)、彼らのとんちんかんな存在には場を和ませる何かがある。

なんとなく助け合いでやっていかななぁ、と思わせる何かがある。

責め立てるのではなく、許し認める。

それにより場の全体の力がもちあがっていくこともある。

主体は後からやってくる

夜中にビール(プレミアモルツ)を飲みながら、イカ缶を食べた。
飲み屋だと1000円くらいしそうだが、家だと400円程度。
安上がりでいい。
なんとなく、うまいなぁ、と思いながら飲んで食べていた。

主体は後からやってくるんだな、ということを最近よく考えている。
以前ブログで紹介したジュディス・バトラーの本を再読している。

『責任という虚構』という本をちょっと前に紹介したが、そこで説かれている内容と似たようなことがバトラーの本の中で言われているので、ちょっと驚いた。自分の関心の所在がやっぱり類似のところにあるんだなぁ、と思った。ニーチェを引証しつつ、彼女は以下のように言っている。

「行為者は事後的にのみ行為に結びつけられるのである。実際、行為者は、法体系―つまり、件の自己を苦痛の因果的源泉として位置づけることで、説明可能性と処罰可能な罪を確立するような体系―が規定した道徳的存在論を満たそうとする割り当てによって、遡及的によってのみ、行為の因果的な主体になる。」(バトラー『自分自身を説明すること』p17)

主体は後からやってくるんだな、ということは、この本から多くを学びつつある。
あらかじめ、自分自身にとって理解可能な自分がいて、その確立している自分が他者を観察し、他者と出会い、他者と交わる、というのではなく、まず他者の存在があり、他者の働きかけがあり、その他者の呼びかけの中で、自分の主体もできてくる、そんな関係の中に自分という主体はあるのだ、根っこにおいて、自分は自分自身に不透明であり、他者との関わりの中でしか自分は存在しないわけで、それでも、責任というとき、自己責任の明瞭さではなく、自分に対する不透明さ(=他者との根本的なつながり)がかえって新しい倫理の可能性を開く、とそんな議論が展開される。

「私とは、自分自身に閉じこもった、独我的な、自分自身についてだけ問いかけるような、言わば内的主体ではない。私は重要な意味であなたに対して存在しており、あなたのおかげで存在している。」(p57)

介護ではなく、介助と言われるとき、その介助者というのは、上に言ったような場所に身を置く存在なのではないかなぁと思っている。介助者という主体は、常に他者の存在、他者からの呼びかけの後に成立する。先に介助をするものがいて、後に介助されるものがいるわけではない。

介護におけるパターナリズムは、先に介護者、指導員という人がいて、その人々の規範がまずあり、その枠の中に障害者・高齢者があてはめられることにより起こるのだろう。バトラーはそれを倫理的暴力と呼んでいる。

「倫理的暴力は、私たちが自己同一性を絶えず明示し、維持するよう要求するのであり、また他者にも同じことを要求する」(p79)

介護者が、十全な介護技術を備えた自己同一的な主体とすれば、介助者は、常に各々の障害者・高齢者との出会いの後で自らのあり方を定めていく、不確定だけど確かな存在であろう。

そうした介助のあり方というのは、おおよそすべての人間関係において重要なものだと思うし、たとえば安積遊歩がピアカンを当事者同士による「介助」として位置づけているのも、介助におけるその重要なポイントを外していないからだろう。

CILの中では、わりと単なる手足論、単なる労働論が語られるが、それはひょっとしたら倫理的暴力にもとづくものかもしれない。

障害者と介助者。お互いに未知である。
最近、発達障害精神障害をもつ介助者が介助に入り、見てるとほんまにどっちが介助をしているのか・介助をされているのか、よくわかんないことも多い。

介助者が上手じゃないと、障害者にとっては自分らしい生活が犠牲になる。介助者は障害者を前にしたら、その人の持つ自分らしさはいったん崩さないといけない。

自分らしさというのは、ときに倫理的暴力をともない、ときにその暴力はしかるべくして行使しないといけないと思うけれども、それでも介助という立ち位置、後からやってくる主体という自己意識は、忘れてしまいたくないものだ。