ケア研(土)と生きた思想家(日)

11月21日(土)に立命館生存学プロジェクトのケア研に参加した。
前田拓也さんの『介助現場の社会学』を題材に、著者含め4人+司会者で座談会を行った。
前日も朝まで飲んでしまったので、けっこうふらふらだったけど、ともかく本を読みとおして、メモをとってみて、その上で何人かでしゃべる機会をもてたので、いろいろ参考になった。
企画者の安部さんに感謝。
学者系院生の規範論、制度論には、正直距離を感じた。ただそれを感じることができただけでもありがたい。距離感から自分の位置がわかるような気が。。。
運動にかかわり、なにごとかをどうにかしていきたいと思っている人々は、まだやっぱり規範論、制度論の手前にいる。その人々の土壌があり、それを踏まえた上で、はじめて規範や制度も語っていくもんじゃないのかなぁ。
いきなり、そっちにいっちゃうと、ちょっと乱暴な、筋は通ってるのかもしれないけど、もろもろの豊かさをそぎおとしてしまう議論になっちゃう。
もちろんそちらにはそちらの文脈なり、たたかう相手がいるのかもしれないけど。

翌日は、知り合いの紹介で、とある介護者・フェミニストに出会った。
お名前だけはうかがっていたが、中途半端な知り方だったので、少々緊張した。
話し始めもぎくしゃくしていた。
ぎくしゃくしていたけど、だんだん共通の話しの地盤が成立していき、とてもとても豊かな話しができるようになっていった。
自立の話し、青い芝とCILの話し、ピープルの話し、介護者の主体の話し、サバイバーの話し、ハンメの話し、痛みと赦しの話し、闇と光の話しなどなど、昼過ぎから5時間、とても希有な時間を共有し、過ごすことができた。
これまで、フェミニストと呼ばれる方々に何名かお会いしてきたけど、はじめて「本物」のフェミニストと感じた。
はじめて(こういう表現が適切かどうかは知らないけど)、「女性」という他者に出会った。
ある「障害者」に出会ったとき、そこではじめて「障害者」という他者に出会ったときの経験に近い。
それは、ある「畏れ」の念とともに自分を揺るがし、そうして生じる畏敬の感情に近いのだろうか。
障害者なり、女性なりを「底」につきぬけ、そしてある種の普遍性に到達する。横塚晃一はそうした思想の持ち主だったと思うし、昨日会った方も、そうした実践、葛藤、生きざまを示していると思った。
文章を書くタイプではなく、生きた思想家に出会った、という印象。
ある自立障害者の介護を10数年続けているが、そこでの介護の思想は、やはりCIL系介助者とは一線を画す。

原義としての〈介助者〉、転義としての「介助者」とおとついのメモに書いたけど、この土日の経験は、その差異をある程度明白に認識できた気がする。

以下、土曜のケア研用のメモ。(自分用にアップしておきます。)


○手足論と〈介助者〉の自覚
「障害者の自己決定に関して、他者としての介助者が手段の確保というレベルで大きく影響して」いる。(p65)
「介助者は、自らが利用者の道具であることを自覚しながら、同時にそれぞれの立場やアイデンティティをもった「何者か」として障害者の生活に介入しているのだ。だから、介助者は「ノーバディ」ではいられない。介助者を単なる手足としてのみ語ることは、健常者を「ノーバディーでいられる」という「特権性」から引きずり下ろす営みであったはずの「自立生活」を巡る議論において、介助者を再び「ノーバディー」として位置づけることに等しいのだ。」(p81)
「介助者は「ノーバディ」としての健常者などではなく、現に介助の場において、アイデンティティやポジションをもった「何者か」として「障害者の自己決定」に介入してしまっている。そのことに自覚的であるなら、なおのこと「介助」をノーバディーとして語ることはできない。」(p83)
「だから、求められるのは、「介助者のリアリティ」を議論から排除することではなく、介助者にアイデンティティやポジションを自覚させた上でむしろ積極的に語らせることであり、また介助者もそのように語るべきなのだ」(p84)
(障害者という主体も完成したものではない。障害者側からの自己(非)決定の記述も望まれる?)


○違和感:「”社会をまるごと経験すること”としての介助」←通常は、言われたことを丁寧にやるだけでそこまで考えずにすんでいる。利用者の生活も、そこまで考えてもらわなくても十分にまわる。介助者も介助の仕事の時間を離れたら自分の時間がまっている。切り分け。

距離をとったままでも(無自覚なままでも)仕事は可能。すべてを職場の作法と受け止める。自分の日常にはもちこまない。労働力の商品化。
多くの人は、障害者という他者との関わりの「まるごとの経験」をあえてシャットアウトする。軽く流す。
健全者性の脱構築という意義をもたずに、生活のためにたんたんと仕事をこなす。(→マニュアル化へ?)
「介助者は、技術を通して障害者を理解したと思った途端、スルリと即興的にズラされ、かわされてしまう。」(P233)←マニュアル化が客の要望としたら?
施設職員の手を感じた=あっ、この利用者にはあんまりなめらかにやらない方がいいんだな。ワン・ノブ・ゼム。施設職員の手の使い分け。
介助サービスにおいて客の要求にあわせること/健全者性の脱構築 ←別の議論?

○出会い=介助者になる=健全者性の脱構築

〈介助者〉(原義)その場その場で行為遂行的に構成される主体、まず関係的概念

「介助者」(転義)固定的な存在、実体概念

「われわれの暮らしは、常に/すでに、介助者研修の場である。そうして、重要なのは、手足の淀みを契機として聞くことへの志向を開き、介助者を「研修中の身」へと何度も何度も立ち返らせることであるということになる。」(p240)


○「自覚」を介助労働の規範に組み込むかどうか。

「大事なのは本来は利用者が片付けるべきこと、利用者が面倒くさくてやらないことを私が代わりにやってあげているというふうに勘違いしないことです。部屋を片付けたいのはその利用者ではなく、介護者である自分なのです。」(『良い支援?』p189)
「逆に見ていて嫌な介護は、一見利用者に聞きながら利用者を満足させているように見えて、実は言葉巧みに介護者が利用者を自分のペースに付き合わせているような場面です。」(同p190)

○自己決定、縁を切る、生活の継続(生活の中心と周辺)
「だから、CILという場でおこなわれる有償の介助は、障害者と介助者とのあいだの「縁を切る」ことが前提とされており、また、そのことは同時に、介助者がいつかそのCIlを去っていくことが織り込み済みであることを示してもいよう。」(p289)←ほんまかな?
「時給制では良い介護者は育たない」(同p215)
生活の継続性の中心を担う介護者、その責任