ケア論メモ

自分用のメモです。
以下は、堀田聡子さんの
http://web.iss.u-tokyo.ac.jp/jinzai/7-5.pdf
からの引用。

Hochshild[1983]は、客室乗務員をとりあげて、肉体労働や頭脳労働に加えて職場において発揮するよう求められる自己の感情の管理を「感情労働」とよんだが、Himmelweit[1999]は、感情労働のなかでも、?介護には、介護される者に対して気遣う感情ないし態度の側面と、身体を使った活動ないし労働の側面が備わっており、?常に自分の感情をコントロールし、要介護者に対して細やかな気遣いを
示すことが要求され、?かつ、要介護者との長期的な関係を保たなければならないため、とくに感情の管理が困難であると述べている。利用者との良好な関係のもとでは、ヘルパーが利用者とのあいだで互いにケアをしあう関係を享受できることについては第?節で述べたとおりである。しかしヘルパーの仕事に対する理解が低い利用者がいること、「利用者の方々も良い方ばかりではないので精神的にもつらい仕事です(a)」との指摘がみられたように、また人と人であるからこそ当然のことながら、良好な関係が築けない・維持できないこともあろう10。ところが、心のケアを重視し、本来的に他者に関心を持たずにいられない、「ケアしたい欲求」をもったヘルパーは、良好な関係を持つことができない利用者のもとでも、困難な感情労働を実践しようとする。ここにバーンアウトなどの心理的疲弊の症状が現われるものと考えられる。内藤[1991:126]は次のように述べる。「世話、養育、配慮などを含むものとしての「ケア役割」は、いわば、他者の欲求を満たす役割である。人が自分を「ケア役割」に集約していくことの怖さとは、自分の思慮や行為の適否が、専らケアを受ける相手が満足したか否か、すなわち他者の判断によって評価される、ということである。・・・自分の精神を他者に預けてしまうほど悲惨なことはない。もちろんケア(世話、養育、配慮など)は、人間に不可欠な、価値ある資質・作用だが、他の可能性、他の側面が育てられないまま、ケア専担になることが怖いと思うのである。ケアは、他の側面と共存し、他の側面に支えられて初めて、自他を生かすものとなり得るのではないか」。決してケアに没入しない、自分の精神を他者に預けてしまわない態度が必要なのである。ここで「ヘルパーの仕事とは」に対する興味深い回答をひいておく。「(ヘルパーの仕事とは)その人の人生に深くかかわる仕事であると思う。しかしあくまで他人である。その一線を自分にきちんと引きしかもその人の生活を側面から支える重要な仕事である(b)」

ヒンメルワイトの意見は、渋谷の『魂の労働』にも出ている。
介護における「気遣い」→これはCILの側から見てみてみるとおもしろい。
介助にはあえて「気遣い」はいらない。それが余計。庇護の源。障害者側の責任の不在。障害者の自己責任によりかえって介助者は感情労働から守られる。けど、介助者はやりがいを見つけにくくなくなる。
渋谷「産業労働者が自己の労働を、自己の感情とは切り離すことのできる〈商品〉として扱うのに対して、介護労働や感情労働に従事する者は、介護される側〈顧客〉との長期、短期的な信頼関係にコミットしているがゆえに、十全にその感情労働を商品化することができない。」(p30-31)
手足論との接続。
ただ、手足、商品だけでいいのかどうか。
労働を感情から切り離すのがいいのかどうか。
全人ケアと、生活の一部を「側面」から支える介助。(介助者の立場。全人的関わりのとき、生活の一部を支えるとき。混同しやすい。ケアしてあげちゃいたい。燃え尽きor思う通りにいってくれないことへのいらだち・抑圧。)
障害者の自己責任、自己管理能力との兼ね合い。気づかいを要求されることと、なしですませられること。
商品とした場合、脱中心化している現状でのやりきれなさ。つながりの不在。顧客による経営管理
感情を動員させるのでもなく、個々ばらばらに孤立化させるのでもなく、どのようなしかけ、工夫が必要か。
脱中心化、孤立化の戦略(パーソナルアシスタンス)と介助者の気持ち、志。
介助者は何のためか。介護者のため、障害者のため、社会のため。個人の自由と社会の多様性、共同性。
「ただの介助者」という立場(つながりの不在。退出可能性)。サービス提供責任者の立場(派遣のストレス)。CIL健常者職員の立場。

「ケアしたい欲求」→弱い人を世話してあげたい? これもCILでは否定される。
ケアや気遣いではなく、むしろ他の者と平等な権利保障。そのもとでの、介助。

「ケアしたい欲求」については以下↓

その後、いまや「ケア論」の古典ともいわれるMayeroff[1971]は、ケアの本質を「私は補充関係にある対象を見い出し、その成長を助けていくことを通して、自己の生の意味を発見し創造していく。そしてその対象をケアすることにおいて、“場にいる(In-Place)”ことにおいて、私は生の意味を十全に生きるのである」とあらわしているが、これはやや抽象度が高い。
自己と道徳性、葛藤と選択について語る女性の声に耳を傾け、自律した個人と抽象的な道徳観からなる男性的な「正義の倫理」に対比して、愛情と仕事両面における自己と他者の感情による結びつきと道徳的思考を中心とする女性的な「世話の倫理(ethicof care)」を提唱したのが、キャロル・ギリガンの『もうひとつの声−心理学理論と女性の発達』である。これによれば、「世話の倫理」とは、「すべての人が他者から応えられ、仲間とみなされ、誰もひとり取り残されたり傷つけられたりしてはならない(Gilligan[1982:63])」という見解であり、以後のケアをめぐる倫理学の火付け役となった。
最後に、広井[2000]をみておこう。これによれば、人間は際立って「社会性」の強い生き物であり、いわば本来的に(だれかを)「ケアしたい欲求」をもっている。そして他者とのケアのかかわりを通じて、ケアする人自身がある力を得たり、自分という存在の確認をしたりするという。
このようにみてくると、人間は、だれかを、他者を、ケアすることによって、自分の存在を確認し、その生を十全に生きることができる生き物だと考えることができそうである。
本来的に「ケアしたい欲求」をもったヘルパーが、利用者を、自らの補充関係にある対象と認め、その対象をケアする――気にかけ、心配し、成長を助け、そして応える――こと、すなわち心のケアを重視することは、人間として、いわば本能的ないとなみともいえよう。

ケアしたい欲求をもし否定したとして、その上での「社会性」、絆を何に見るのか。