施設と地域

またまた思いついたことを。

施設と地域というとき、昔は全然別物の世界を指していたけど、ポストモダンの文脈からすれば次第に意味が薄れていってるのかなぁ、そんなことも思っていた。

施設の地域への開放と、地域の施設化・病棟化とは同時並行的に言われていて、それで確かに同様の事態の進展が起きているような気がする。

介助者の脱中心化という流れにしても、確かに施設職員も利用者主体のもとに従属化しつつあるような感じがする。

以前、ピープル京都のメンバーとある知的障害者施設にいったとき、対応してくれた職員の苦渋の顔を思い出す。
「入所者はやっぱり職員さんのことを先生と呼んでるのですか」との質問に対し、苦渋の表情を浮かべて、
「それはやめようという風にはしてるんです。でも、昔からいる人はそれが癖になっていて…」というような返答が返ってきた。

ソーシャルワーカーが専門家としての権威をもつということは徹底的に反省されて、そこに脱中心化が起こっている。by三島

(もちろん、そうした傾向に対する反応として、たとえば教育現場ではプロ教師の会のように教師の権威復権を説く動きもある。介助者や介護者の反応もさまざまで、医師や看護師の権威によりつこうとする人、介護職の専門化と権威復権を目指そうとする人、あるいは割り切ってサービスに徹しようとする人、思いやりを忘れず親身に対応しようとする人など様々である。難しいのは、消費主体化が進展しているため、労働者の脱中心化だけでは対応しきれなくなっている点である。それに対応するための岡田の中間団体論や前田6章の組織論はだいぶ参考になると思う。)

ポストフォーディズム時代における生=労働の文脈、生産主義が工場内にとどまらず、社会全体に展開しているという見方、そして消費社会・情報化社会における大衆の消費主体化・情報消費主体化、さらにサービス業に代表される感情労働の進展に見られる労働の女性化といった動向をみると、施設と地域という枠組みの境目が揺らぎ始めているように思う。
さらに、またまた大上段に構えた議論だが、生きづらい人の増加、軽度発達障害者や軽度精神障害者、そして月40時間労働に耐えられない身体の持ち主の増加の傾向は、障害者/健常者の境目も崩れていっていることの兆候だとも思う。