ふっきれ

とりあえずどっかでふっきれないとな、と思う。

昔の概念思考、概念パズル合わせの悪癖がぬけていないので、なかなか語りだすことができない。

今日は京大生協で2冊本を買ってしまった。
『人間形成にとって共同体とは何か〜自立を育む他律の条件』
『自己形成の心理学〜他者の森をかけ抜けて自己になる』

どっちも似たような内容で、一方は教育学の観点から、一方は発達心理学の観点から、自己が根本的に他者とか共同体の慣習・規範とかを通じて形成されることを論じている。
最近、こんなことに関心をもってばっかなんだなぁ。

昨夜、『責任と虚構』の書評おもしろかったよ、という人と話してたら、「でも、社会学の分野ではもうずっと昔から常識なんだけどね」ということをおっしゃっていた。
60才くらいのピープル支援者。来年のピープル全国大会のために、勤めていた養護学校を早期退職してしまった妙な人。京大社会学出身。

今日本屋で眺めていても、教育学でも心理学でも確かに、自己の形成が根源的に他者や環境によっているということは今では普通の議論なんだなぁ、と思った。

ソーシャルワークの分野でも、90年代からフーコーに依拠する反省理論が欧米ではかなりはやっているそうだ。by三島

介助というのも、明らかに、ポストモダンの脱中心化の文脈に位置づけられそうで、時代の流れからしたら、そういうところに位置づけて論を運んで行くのも確かにありなんだなぁ、とも思った。

ただ、まぁ、そういう作業をするにはあまりにも勉強不足なため、とりあえずは、どっかでふっきれて、自分のあり様を言葉にしていかないとなぁ、と思う。

ちょっといけてる介助者、あうんの呼吸で介助をしている人々のことを思っていたら、そういえば、介助者の中には、兄弟に障害をもった人がけっこういるなぁとも思っていた。

「他者の森をかけ抜けて自己になる」というとき、その他者の中にどれだけ多様な障害者がいるか、そしてその他者の中に介助・介護を必要とする人がどれだけいるか、そういう経験を通じて形成された自己というのは、今の健常者とはだいぶ違ったものになるだろうなぁ、と思っていた。

これからは、いやがおうでも、介助・介護の経験を社会はつんでいかないといけなくて、当然それを専門家だけの閉じられた管理施設の中に閉じ込めておいてはいけなくて、介助・介護が私たちの経験の根底に当り前のものとして存在するようにならないといけない。

それにしては、今のところ、そうした当り前の経験はまだ言説化されていなくて、特に脱中心化された介助者の経験というのはほとんど言葉にされていない。

「介助者たちはどう生きていくのか」という主題は、今後自然と成立していくものなのかもしれない。けどそれぞれの段階でやはり何か言葉にされていく必要もあるのかもしれない。

とりあえず、今のところ、ほとんどそうしたものは存在していないから、なんでもいいから言葉にしていってみようかな、そんなふうにちょっとふっきれた気持ちで構えをとってみようかな、そんなことを思った。