『介助現場の社会学』をパラパラ

前田拓也の『介助現場の社会学』を30分ほど、パラパラめくった。

丁寧に議論されていて、とてもおもしろい。

今度研究会があるからそれまでにちゃんと読んでおかないと。

「ざわめく自身の身体を通じて社会を再発見すること。」(p331)なんてなかなか素敵なフレーズだ。

山下さんが、この前のかりん燈集会で強調していたグループ・ゴリラのパンフレットの表題「身体で未来を視よう」と同じだ。30年前のこの思想を、前田さんは、この現在において「介助者になりゆくプロセス」と捉えた。

CIL運動における健常者のあり方についての、これが一つの現代的な表現なんだろう。

(「なりゆく」と表現したことからわかるように、<介助者>は、その場その場で行為遂行的に構成される主体なのであり、決して固定的な存在ではない。その意味で<介助者>は、まず関係的概念であって、実体概念ではありえない。障害者の自立生活とは、介助を利用することに<によって>ではなく、介助者と関係を取り結ぶこと<において>暮らすことなのであった。逆に介助者は、障害者の介助をすること<によって>介助者になるのではなく、障害者と関係を取り結ぶこと<において>介助者になるのでもある。」p321 ←秀逸だ )

ぼくがもっとも興味深かったのは6章のCILコミュニティ論。

「CILというコミュニティを身体障害者独自の文化の基盤として、障害者の実践のみに注目するのではなく、運営の中心を担う障害者はもとより、介助者/健常者とのを含めたさまざまな人々との協力、対立、妥協、協調や折衝といった社会的実践の交錯を可能にする場として捉える必要があるはずなのだ。」(p294-295)

前田さんの上の提言は、おそらくもっともっと知らされていく必要があるだろう。

おそらく、この書物は、メインストリーム協会という希有な団体において成立しえた貴重なドキュメントである。

(登録)介助者をして、そのコミュニティの正統なメンバーとして意識せしめ、さらに介助者をして「介助者になる」ことの意義を気づかしめることは、残念ながら並のCILではできない。

多くの場合、「介助者になる」とはかえって運動から距離をおくということだし、それが一つの社会的実践だとはなかなか位置づけられていない。どちらかといえば、社会を向くのではなく、障害者の私秘的なブラックゾーンに入りこむことである。介助を社会に開かせることは、なかなかできない。介助は多くの場合、閉じていく。

開かせる方向でもっていくメインストリームの実践はやはりすごい。それは当事者主体ではなく、むしろそこから社会に触手をはりめぐらせてできた混合的な複合体なのだと思う。