支援における死

パニック症状の激しい当事者を、数人の職員でおさえたという。
知的障害者の地域生活を強力に推し進めているとある団体のできごと。
外に飛び出したり、他傷行為もあるので、パニック時は職員が日常的におさえていたらしい。
そうしないと、本人の身体がもたない。
自分の身体などどうでもいいかのように、身体がどうなってもまるで無関係のごとく、すさまじい衝動により、全身で暴れる。
実際は会ってないけど、そんな感じなのだと思う。
そのときも、激しいパニックで、職員が数名でおさえた。
そして、気がつくと様子がおかしくなっており、救急車で運ばれ、その翌日亡くなったという。


支援における死の話しを最近ときどき聞く。

それは、病院でも施設でもなく、地域での日常生活の経過の中でおきたできごと。

いつ起きるかわからない。明日あさってにでもぼくの身近でおこるかもしれない。

だれだって、死に至ることをそのまま認めることはしない。
死は突然やってくる。
どの介助者、介護者がその場に立ち会うか。
その者の責任をどれだけ問いうるのか。
本人が車いすでつっぱしって、そのまま事故にあうかもしれない。
のどに食事をつまらせて、そのまま意識不明になるかもしれない。
脳梗塞脳卒中で、発見が遅れるかもしれない。


わたしたちは、その現場にむき出しの状態でのぞまなければならない。
その死は、直接私たちの目の前で起こり、そして、その後は一生を通じて何とかできたのではないかという悔悟の念に責めさいなまれる。
わたしたち介助者、介護者はその場に居合わせる可能性を常にもっている。


病院や施設では、死は、職員個人の責任問題としては「隠ぺい」される。
その死における個人の責任は問われないようなシステムになっている。
もし個人の責任が問われるならば、病院も施設も存続しえないだろう。
病院や施設は、死を「隠す」。

冒頭の、ある当事者の死も、地域でおきたこと、さらに、家庭内でもなく、公の場で起きたことだから、事件となり問題となった。
彼が施設に入っていたならば、原因不明の死として、そのまま闇に葬られていただろう。
死は施設というシステムにおいて隠ぺいされる。


死刑囚の死刑執行のとき、だれが殺したかわからないように、複数の人が同時にボタンを押すという。
どれか一つのボタンだけ発動することになっている。
どのボタンが発動するのかはコンピューターによってランダムに決定されるので、どの人の押したボタンによって死刑が執行されたかは、永久にわからないらしい。
システムは、そのようにして「死」を隠ぺいする。
だれかの「死」において、だれの責任も問われないようなシステムが作り上げられる。

死の隠ぺいは社会的合意の中で行われる。
社会は、死を隠ぺいすることによって機能しているのかもしれない。
死において、だれかの責任を問い続ける社会は、正常に機能しえなくなるのかもしれない。
生きている人々が生きていけなくなるのかもしれない。

病院や施設は、その隠ぺい機能をまかされた社会的装置なのだと思う。
だからここでの死はすべてごまかされる。隠される。
医師は何ができたか、看護師は何ができたか、最善を尽くしたのかどうか。
それを問い始めたら、人は磨滅して生きていけなくなる。
だからある程度の合意ラインの中で、彼らは生を手放す。
意図的に、しかしシステムの中では無感覚的に、彼らは他人を死にゆくにまかせる。
そのシステムの中では、親族も彼らを責めはしない。


地域での支援はときに、それらの生と死に直接個人が向き合わなければならなくなる。
個人が一生背負いこむものを引き受けなくてはならない可能性がある。
死が直接にその人を捕捉する可能性がある。

介助・介護を続けられなくなる者もでてくる。
この苦悩を味わわねばならないなら、若い人に介助者・介護者になることを勧められはしない、と思う者もいる。


介護職を専門職化し、地域を施設化することで、その苦悩を軽減していく方向性はある。
プロとして、死と向き合う。専門職という壁をつくって、死と向き合う。
死は壁の向こう側にあり、その死が自分に襲いかかるのを壁がある程度緩和してくれる。

死とは、直接に向き合うものだと思う。
死を隠ぺいするシステムはあまりない方がいいのだと思う。それは生の隠ぺいでもある気がする。
生は死と不即不離であり、死を隠ぺいした生は、すでにまた隠ぺいされているとも思う。
だから壁は低い方がいい。

背負うものは背負わねばならないのだと思う。
けど、その重荷が、少数の人にのしかかるのはいけないと思う。
人は、直接に数多くの死を受け止めることはできない。

生は死に刻印されている。
システムはそれをごまかす。
けど、ごまかしのない生、そして死を、人は生きていった方がいいのだと思う。