『生活保障』(宮本太郎、岩波新書)

『生活保障 排除しない社会へ』(宮本太郎 岩波新書2009年)

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

日本型生活保障の重層的な囲い込み構造は、支配の構造としても作用した。すなわち繰り返し述べてきたように、官僚制が業界と会社を守り、会社が男性稼ぎ主の雇用を維持し、そして男性稼ぎ主が妻と子どもを養うという仕組みは、ときに人々に重くのしかかり、自由とライフチャンスを制約してきたのである。(222-223)

 新自由主義的な改革に喝采が起きた背景には、日本型生活保障を支えた組織内部のこうした閉塞感もあったであろう。人々は、息苦しい組織の外の自由な空間に思いをはせた。ところが、もともと仕切りの外の関係は希薄であり空気は薄かった。この外部の空間については、社会保障の制度も十分にカヴァーしていなかった。いったんその外に放り出された人々にとっては、そこは経済的に不安定であるばかりではなく、人々を気にかける「まなざし」そのものが存在しない荒涼たる世界だったのである。(61-62)

 『生活保障』というタイトルのこの本は、これからの社会保障のあり方や私たちの働き方、そして社会参加のあり方を考える上でとても重要な本だと思います。
 2009年の11月、つい2カ月ほど前に出たばかりですが、きわめてタイムリーです。

 「生活重視」「生活が第一」とのスローガンを掲げていた民主党が政権をとりました。90年代後半から、一般的に言って、ぼろぼろと人々の「生活」が破たんしていきました。「派遣村」に代表されるように、多くの人が「仕事」から放り出され住むところにも困るようになり、また「仕事」があったとしても不安定で低賃金の仕事ばかりで、その日暮らしの不安定な生活を強いられるようになりました。
 従来の「会社」や「家族」という形態が崩れつつあり、会社はもう男性稼ぎ主を守ってくれません。労働者の生活を守ってくれません。働くお父さんが家族を養ってくれることもありません。お母さんが家で家事や育児をしてくれる、ということも少なくなりました。
 「会社」や「家族」にはある意味で不自由な側面もありました。お父さんは会社に忠誠を誓わなければならず、お母さんはお父さんや家庭のために尽くさねばなりませんでした。そしてこうした枠組みの中には「障害者」の居場所はありませんでした。
 こうした枠組みが崩れていったことは、一面では、会社に縛られない、家族に縛られないという自由の拡大につながっていく側面もありました。女性の社会参加、障害者の社会参加の動きとも連動していました。これまで女性や障害者の社会参加を阻んでいた壁が崩れていったとう意味もありました。
 古臭い「殻」が脱ぎ捨てられていきました。脱ぎ捨てたあかつきに、待っていたものはなんだったでしょうか?新しい「翼」を手に入れた人もいるかもしれません。社会にはばたいていった人もおられるでしょう。そしてその一方で、翼も何も手に入れることができず、気付いたら裸のまま寒い夜空のもとでうずくまっていた、という方もおられたように思います。

 今、私たちの「生活保障」のあり方は明らかに転換期にあります。今回の政権交代はその象徴でした。小泉改革に代表される「構造改革」によって旧来の枠組み、「殻」が壊されていくと同時に、人々の「生活」も不安定化し、崩れていきました。小泉元首相は「創造的破壊」を言いましたが、その実態は「創造なき破壊」とも言われました。今回の政権交代は、その破壊にまったをかけ、新しい生活再建の方向を模索していくという意義があったのだと思います。私たちの生活、働き方、社会参加のあり方はどのような方向に向かっていくのがいいのでしょうか。

 著者宮本太郎さんは北海道大学教授。先日DPI日本会議の北海道大会にも全大会のシンポジウムにパネリストとして参加。障害者の自立生活運動にも理解と共感を示しておられる模様。一方で現在は福島瑞穂さん付きの内閣府参与として政権に関与。年末には、雇用緊急対策を論じる場である「雇用戦略対話」に有識者メンバ―として参加。そしてこの本『生活保障』は民主党議員たちの勉強会などでも使用されている模様。こう書くと民主党のお抱え学者のようだけれども、すでに旧麻生政権下においても、当時危機感を抱いていた自民党議員に請われて「安心社会実現会議」の委員となっており、すでにそこにおいて今後の生活保障のあり方について、この本に書かれているような基本骨格を提示していたらしい。いずれにしても、政治的な右、左の立場を問わず、今後の社会のあり方はいかなるものがいいのかを考えていきたい人にとって、この本から学ぶところは多いはずです。

 さしあたり目次を簡単に示すと、

1章 断層の拡がり、連帯の困難
2章 日本型生活保障とその解体
3章 スウェーデン型生活保障のゆくえ
4章 新しい生活保障とアクティベーション
5章 排除しない社会のかたち

となります。

 1章で、現代日本社会の課題等を論じます。民主党が政権をとり、政権交代が起きましたが今ここにきて、小沢問題等で政権運営に揺らぎが生じています。メディアが煽りすぎている印象がありますが、ともかく今の人々の多くは他人を叩くのが趣味の性癖をもっているようです。政治家は足の引っ張り合い。国民も足の引っ張り合い。互いに練磨するのではなく、互いに誹謗・中傷しあっている感じ。実は、そんな現象も、ひょっとしたら日本社会の政治構造とかに起因する部分もあるのかも、そんなことも書かれています。(しかしこのままだと、障がい者制度推進会議の存続も不安です。ぼくは今回の政権交代で、障害者施策に関しては「革命」が起きた、と考えています。推進会議は「革命政権」!)
 2章は、会社や家族を軸とした旧来の日本の生活保障のあり方と、その解体過程を論じています。
 3章で、著者のもともとの専門であるスウェーデン型の生活保障のことが紹介されています。いろいろ知らないことがあって勉強になります。(スウェーデンは、国民みんなに「労働」を強いる「就労原則」をもった国だそうで。)
 4章と5章が、「新しい生活保障」のかたちを示しているメインパート。「ベーシックインカム」のことも詳しく書かれていますが、ベーシックインカムが雇用と社会保障を分けて考えているのに対して、著者が推奨するのは雇用と社会保障を連結して考える「アクティベーション」という考え方。この「アクティベーション」という考え方によって、「排除しない社会」、「人々がそれぞれの多様な人生のプロジェクトを追求することを支え合う社会」(224)が成立すると論じられています。そうした社会のあり方に向けて、教育システム、家族のあり方、企業や産業のあり方、労働者待遇、非就労者の待遇など、さまざまな側面から議論されていきます。かなりの整合性をもって包括的な社会ビジョンを提示しているので、うーむなるほど、と唸らされます。

 もちろん著者の見解に必ずしも賛成できないところもあります。もともとどうだったかはあまり知りませんが、今回のこの本では、宮本さんはかなり「就労原則」を強調しています。社会保障の受給資格も、就労や求職活動を前提とするというような就労原則です。常に働く人に見返りがあるような社会を、と言っているような感じです。「生きる場」の確保というとても大切なことや「社会参加」のことも語られていますが、基本的に「就労を軸とした社会参加」が念頭にあるようで、その他の社会参加のことはあまり語られていません。つまり、働いていないとダメだぞ、という理念(ないし強迫)に基づいた社会が想定されているような印象です。人間の社会活動には、「遊び」や「無為」や「放蕩」も含まれると思うのですが、どうもそれらはあまり評価されていないようです。「アクティベーション」という考え方は、社会のために「活動的」であることを奨励する考え方と思いますが、人間は単に「活動的」なばかりではなく、受動的側面、受苦的側面もあるはずです。どうも著者の言う「アクティベーション」では人間のそうした側面が二次的にしか評価されないような気がします。「生きる場」というのは人間のそうした側面に基づく部分が多いと思うのですが、どうもそうした場でもアクティブであることが奨励されているようで、ちょっとしんどい感じです。

 ともあれ、著者の見解に賛同するにせよ反対するにせよ、今後考えるべき重要な論点が包括的に挙げられているので、いろいろ考えてみたいなぁ、と思っている方は手にとって読んでみてください。
(JCIL機関紙「自由人」65号掲載)


ps「居場所と出番」

鳩山首相所信表明演説で「居場所と出番」ということばを用いたそうです。
それはまさしくここで宮本太郎さんが言っている「アクティベーション」や「生きる場」といった考え方に近いものです。
鳩山首相の演説では、あるチョーク工場で一生懸命に働く障がい者の方々のことが例に挙げられています。
本当に一生懸命働くので、工場の社長がある席上で寺の住職に「なぜ一生懸命働くのでしょう」と質問したそうです。

「ものやお金があれば幸せだと思いますか。」続いて、
「人間の究極の幸せは四つです。
愛されること、ほめられること、役に立つこと、必要とされること。
働くことによって愛以外の三つの幸せが得られるのです。」

社長は、それに加えて、「その愛も一生懸命働くことによって得られるものだと思う」という感想を抱いたそうです。

つまり、「居場所と出番」でいう「出番」は「働く」ことであり、上の住職の発言から推測するに、人は働くことによってはじめてまわりのみんなに愛されたり、ほめられたりして、幸せがえられる。
逆に働かないことによってどうなるかは述べられていませんが、どうも働くことが幸せの前提となっている、そんな感じです。
ここでもアクティベーションに対する上の批判と同じことが言えると思います。
人は働くことによってしか幸せをえられないのでしょうか。

(首相の所信表明演説はこちら→http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200910/26syosin.html