介助することに障害のある人

立岩真也『弱くある自由』からの引用。

…能力を求めている(無能力〜障害を求めていない)のはこの「社会」そのものではないか。さらにその社会とは何か。ひとまず社会を構成しているのは一人ひとりではないか。…一人ひとりの私はどういう人か。何かを得られなければ何かをしない、何かを与えない。自分で作ったものが自分のものにならなければ作らない。相手から何かをもらわなければ、相手が自分のために働いてくれなければ、与えない、買わない、雇わない。このように私が行動するなら、その人に私が欲しいものを作れる能力がないなら、その人から買わない、その人を雇わない。


長いものを書かないといけないので、最近いろいろと資料を渉猟しているが、さきほど上の引用文を感慨深く読んでしまった。

欧米由来の自立生活運動の主張では、障害者には介護者の解雇権がある。介護者が「自分のために働いてくれないならば、与えない、買わない、雇わない」ということが正当化されている。

最初一読したとき、あまり前後の文脈も考えてなかったので、あれ、この文章、解雇されるダメ・ヘルパーのことについて語っているのかな、と思ってしまった。(厳密には、まだ日本にはダイレクトペイメントの制度がないので、今の日本の障害者には解雇権はないが、わりと運動の中ではそれがあるかのように言われている。)

が、もちろん、この文章は、障害者が社会から何も求められない(買われない、雇われない)状況を指して書いたもの。

能力主義(できる/できないで判断する習性)を批判する人々が、それでもやはりわがこととなると能力主義を採用してしまうということになるのだろうか?

別にいい悪いを言うわけでもないが、さて、なぜ介助することに障害がある人の障害については是認されえないのか?

もちろん、たとえば注射が下手で何回も患者の腕に穴を開ける看護師はぼくもごめんこうむりたい。
誤診ばかりの医者もいやだ。というか、恨む。
だから、介護できないヘルパーもやめてくれないと困る。と言えるのかどうか。

たとえば何もできずお手上げで、最後は逃げ出す介護者がいる。さすがにこれは困る。
真面目にやるけど、力がなく、もちあげたあとよろめいて落としてしまう介護者がいる。うーむ。慣れたらできるようになるのだろうか。

立岩はまずいラーメン屋の例も出している。

まずいラーメン屋(ラーメンを作ることについて障害を有しているラーメン屋)はもうからない。能力主義を否定するのだったら、まずいラーメン屋をうまいと言わなければならないのではないか。それはどうも無理そうだ。まずいものはまずい。…
人は私の都合のよいように(うまいラーメンを作れるように)あってほしいということだ。

つまり、介護者は障害者の都合のよいように(上手に介護ができるように)あってほしいということだ。

繰り返すが、もちろん立岩のこの文章は障害者の障害(無能力、特に働く能力のなさ)について語ったのものだ。そして次のように立岩が言うとき(先の引用のちょっと後で)、そこで「私たちの都合」と言われている「私たち」とは、社会の構成メンバーとしての「私たち」のこと、つまり健常者のことである。

こんなところで終わってしまったらどうにもならないような話ではある。けれども、この認識は、その「能力主義」というものが、結局のところ私たちの都合だけから発している、それだけのもので「しかない」という認識でもある。

障害者運動では、「無条件の生の肯定」が主張される。分けてはならず、選んでもならない。しかしなぜ介護者を「選ぶ」ことができるのか。

介護は仕事だから、という理由はもちろんある。けれども、(障害者が)買われない、雇われないことの不当性を唱えたのも彼らではなかったか。

能力がないから(障害があるから)雇われなくて当然だと、ある意味開き直ることはできる。そしてなおかつそれでも「生きてよい」と言い切ることもできる。

だから介護者も、その能力がないものは介護をしなくてもよい。他の仕事を探せばよいし、他の仕事もダメだったら生活保護で生きればよい。そう言い切ることもできる。

そう言い切ってもよいと思うし、実際無理してでもなんとか仕事をしないとという強迫からか、へまも多くかなりいろんなところから断られながらも介護を続けている人もいて、そんな人は少し休んだ方がいいのでは、とも思うし、介護には向いてないよ、と思うこともある。

ただ、そう言い切ってはいけない部分もあるような気がする。そう言い切ることは、やはり「できる/できない」で介護者を選別することであるし、とりわけ障害者の「都合だけから発している」とするならば、それは「できる/できない」が労働力の有無ではなく、主観的な「好き/嫌い」による選別かもしれない。

実際そのように「好き/嫌い」で介護者を「切る」ケースも多く、それが100%悪いとは言えないが、そこには何かぬぐいきれない違和感が残る。

なお、単純に労働力として考えた場合でも「できる/できない」による介護者の選別は、障害者自身の内なる「できる/できない」判断を前提としたものであるのだろう。
わたしは、ここまで「できる」が、ここからは「できない」という判断がまずあり、その「できない」部分を介護者にやってもらう。「できない」部分を埋め合わすことが「できない」介護者はやはりいらない。

こういうのを「内なる優生思想」と呼べるだろうか。
(立岩はすぐ近い個所でそう呼んでいる)

ただ、「できる/できない」の二項を単純に廃棄するよりも、「できる」部分があるとして、それをどのように活かすか、「できない」部分があるとして、介護者を利用することにより、その「できない」部分のどこをどのように「できる」ようにしてもらうか、より優れた生をめざす方向に「できる」ようにもっていくのか、それともどこか別の方向にもっていくのか、そのへんの判断なり認識は重要だと思う。