シンポおわり

昨日、シンポおわりました。

内容としては、なかなかまとまりのよいものだったようです。

残念ながら、ぼくも司会で参加したのですが、風邪でちょっと朦朧としており、眼鏡外して街に出た感じで、記憶もあいまい、個人的にはだいぶ物足りなさが残っています。

「障害者問題を切り口に入っていくが社会全体に関わる所得保障問題であり現状の日本の制度じゃ生存権は犯されているって感じた。」
と言ってくれる人もいましたが、実はぼく個人としてはそのことを意図したのでした。

障害者の所得保障は、コインの裏面というだけで、社会全体の問題であり、健常者の問題でもある。

シンポの中の発言で、ステップ江戸川の方が「障害者は社会のバロメーターではないかと思っている。自分たちが生きやすくなる世の中は、社会の他の人々も生きやすい世の中だ。つまり自分たちが生きやすくなることが社会をよくすることにもつながる。」という趣旨のことをおっしゃってましたが、そういうことなんだと思う。

それを今回は特に、労働イデオロギー、勤労能力の活用という問題から見ようとした。

あくまでも働くが中心の社会、「働かざる者人にあらず」と想定される社会、つまり、働かない者や働けない者は決して働いている人よりも多くもらってはいけないという「劣等処遇の原則」が貫徹している社会では、障害者は「最低限」以上の生活をしてはならないことになっている。

その「最低限」は、いわば「見せしめ」のライン。健常者に向かって、「こうなりたくなかったら働いて稼げ」と恫喝する材料。だから人々を労働市場へと強制動員する社会では、けっして障害者がゆとりある生活を送ってはならないことになる。

ここ200年ほどのあいだにできたこうした労働市場への総動員型の国家体制、社会体制の原理を問い直さないことには、障害者が生きやすくなっていかないのではないか、とぼくは思っている。

そうした問いをかつての「青い芝の会」はつきつけた。それが一つのきっかけとなって、障害者の自立生活が徐々に進展した。

しかしいまだ「所得保障」に関しては、ほとんど展望が開かれていない。

そこを突破する契機があるのかどうか。

ほんらいなら、反貧困の運動にたずさわる人々にも、自分自身の問題としてこの問題を考えてほしかった。

しかしあまり来てくれなかった感じ。残念。
(もちろん知り合いの活動家たちは来てくれて、うれしかったです。)

さらに応益負担に反対する人々はだれも来てくれなかった。

応益負担には反対できても、障害者の所得を増やせとはなかなか言えない、これが今の社会常識です。