所得保障が十分だと働かなくなるのか?
22日(日)のシンポでコーディネーターを務めていたのだけど、パネリストへのこんな質問があった。
「やっぱり所得保障が十分だと、働かなくなると思う。労働力の確保はどうしたらいいのでしょう?」
これはいわゆる「労働インセンティブ」の問題だけど、この質問を質問表から読み上げたあと、なんかちょっと違うなぁ、と感じていた。
パネリストは、それぞれなりにきちんと答えていたけど、実は、当日の体調のせいもあり、回答がほとんど記憶に残っていない。
「ベーシックインカムが導入されると介助者がいなくなる」という議論もあり、それについてもちらっとふれられていたが、ただ青い芝の片岡さんは、わりと確信をもってベーシックインカムが導入されれば介助者は増えると思う、と述べていた。
片岡さんがそう言うところの根っこには、人間への基本的信頼というものがある気がした。
ぼくとしては、さきの「労働力の確保」質問のあと、こんなことを思った。
「いや、生活できるだけのお金をもっていても、日本人はちゃんと働くでしょう。なんたって日本人は、勤労が美徳なのだから。」
これはちょっと皮肉っぽく考えていたのだけど、つまり生活保護の運用等では逆に日本人は勤労が美徳であり社会倫理だ云々いわれ、それゆえに働け(=労働市場で身売りしろ)、と言われるわけだけど、ここでむしろぼくが思っていたのは、金のために働くのは汚い、たとえ金をもらわなくても、見返りが期待されなくても、こつこつ働く、そういう倫理も一方であるのではないか、ということだった。
つまり、「働く」ことを「労働市場で身売りする」こととわけて考える必要があるのではないか、と思うわけだ。
(この考え方は、ジグムント・バウマンという人の『新しい貧困』という本を読む中で学んだ。)
たとえば、これは三澤さんが述べていたのだけど、障害者が自立して社会に出てきてさまざまな活動をする。それは金をもらう仕事という側面ももっているが、そして金をもらうことも(金を行政から引き出す)大事なのだが、それでも金のためにのみやっている活動ではない、金の多寡ではなく、社会の一員としてこの社会に貢献する活動をしている・働いている、ということだ。
「労働」は近代社会の社会統合の基軸だと言われているが、この「労働」をきちんと「労働市場」と言い換えてみる。
そして「働くこと」から「労働市場」を捨象した後に残る「働くこと」の核心、そこに人間の社会活動にとっての何か重要なものがあると思うのだが、どうなのだろう。