介護者の主体性

― 介護者の主体性を問う ―

 どうも自立生活センターなんかにいると、「介護者の主体性」なんてことは問題にしてはいけないことになっているようにも思う。
 ある時から、ぼくはそのことに疑問を感じ、「介護者に主体性ってあると思う?」とときどき人に問うようになっていた。
 今のぼくは基本的には介護者には主体性が必要だ、と思っている。ただやはり、新しく自立生活センターに来た介護者なんかに尋ねると、彼らはそんなのないですよ、と、多少苦々しい顔つきをしながら答える。そしてぼくは彼のその言い分を理解する。
 介護者の主体性は出してはいけない、というのが「介助」の一つの教えであり、スタンスである。それはそれで正しいが、しかし、それだけではない。介助者は口を出すな、とも言われ、もちろん口を出すべきでない場面は圧倒的に多い。しかし、それだけではない。もっと他の側面もあるはずである。
 実は古くから運動をやっている障害者と出会うと、介護者ははっきりと自分の意見をいうことを求められる(ことがある)。黙っていると、なぜおまえは自分の意見を言わないのだ、と糾弾される。実は、黙っているより、そちらの方がしんどい、ハードである。自分の意見をいうこと、それはとっても難しいことである。もちろん相手の立場を考慮せずに、一方的に自分の意見を押し付けるだけなら、話は楽だけど。きっちりと相手の立場と自分の立場を自覚しながら、自分の意見を述べることは、それなりの度胸が必要だ。

 最近出た岩波の『ケア その思想と実践』シリーズの第3巻の中で、金満理が「介護者の主体性」を問題としている。金満理は確か関西ではじめて24時間他人介護をつけながら自立生活をはじめた重度障害者。劇団態変の主宰者。きわめて独特の、そして「介護」というものから切り離されない身体論の持ち主。
 その彼女が、もちろん重度障害者の主体性ということを前提とした中で、介護者の主体性について論じている。
 まず重度障害者の生き方。これにはシンプルな大原則がある。介護者に理解してもらいたいとか、うまく介護者と関係をつくりたいなどということに目を奪われることなく、まず「自分の生きたいように人生をいかに推し進められるか」、このことを基本とする。「重度の障害をもつ主体として、自分が生き方の方向を決めないことには、介護も何も始まらないのだ。…自分の人生においてやりたい目的がはっきりしていれば、介護を介してそれを行うのは些細なことでしかない。」
 そうした基本にのっとった上で、次いで他人介護を介しての重度障害者の生活のさまざまな局面においては、「介護する側の主体の在り方」が問題とされねばならない。
 ではここで問われる「介護者の主体性」とは何か。
 おそらく、自立生活センターに関わる人々の中には、この問題に対して違和感・拒否感・恐怖感、さまざまなものをもつ人もいると思う。そしてそれにはそれなりの理由があるはずで、その理由は正当だとぼくも思う。けれども、やはり別の側面もあるのではないか。それを認識してみるうえで、しかも重度障害者から提起される介護者の主体性ということで、この金満理の文章は、障害者にとっても介護者にとっても一読の価値があるだろう。
 むろん、ここで介護者の主体性といっても、重度者の生活を管理しコントロールしようとするものとはまるで異なる。むしろ、その危険性に対して問題意識をもつことが、金満理のいう「介護者としての主体の立て方」である。
 金は、介護者がそれまで生きてきた中で養ってきた人間観や価値観を「主観」といい、それを介護者の「主体」と区別して考える。
 そして、「介護者が、私の言う主観的な価値観を引きずったままでは、介護者の体として、個別の重度障害者のやりたい生活や生き方の声を拾うことが上手くできず、重度者の体を受け入れられる介護とはならないばかりか、無意識の内に重度者の生きる力を奪い兼ねないのである。介護とは、まさしく重度者自身が生きようとして他人に介護されることを受け入れることであり、重度者が自己の生き方を何とか模索し実現させていこうとしている姿に対して、介護はその生命の営みに一番近いところにあって介護者として触れることだからだ。そういった意味で、介護者の存在の仕方や主体のもち方を問題にしなければならないのである。」(p75)
 つまり、ここで言う「介護者の主体性」というのは、まさしく重度者と関わり合い、重度者の呼びかけに応える中から形成されていくものである。
 「重度の障害者が自己のやりたい生活として、介護者への自分の考え方を主張し意思を通すというのは闘いである。しかし介護者がその闘いを受けとめて、ただ従順なる振る舞いをするだけでことが解決するわけではない。介護者には、相手の言わんとすることによく耳を傾け、自分が把握したことについて聞き返して確認し、重度者の言わんとしていることをより正確に理解しようとすることが求められているのだ。そして、そうした努力をするなかで介護者としての主体が生まれてくるのではないか」(p77)
 重度者の声に全力で耳を傾けることの中から形成されてくる介護者の主体性。実はこうした主体性の考え方は、最近読んだ哲学書『自分自身を説明すること』の中でもよく説かれている。主体とはそもそも未知なる他者からの呼びかけに応じる中からはじめて形成される。主体は、その起源において他者の呼びかけに応答することによって形成されていく。その応答の中にはじめて主体として・人間としての責任が生じるのである。いわば、私の存在基盤を揺り動かし、私に変容を迫るような未知なる他者と向き合い、そこに伴うある種のしんどさや困難さを引き受けていくことのうちに私たちにとっての責任があるはずである。
 この社会においては、重度者の生き方が、介護者の「主体性」のあり方しだいで、一瞬のうちに外部からの流れに押し流されてしまう危険性がある以上、たとえば外出介護においてだれか第三者(駅員・店員等)と出会うとき、まさしく「本来あるべき態度として、主体としての介護者の責任において、重度者の存在に注目させ、本人に聞かせるために主張し、知らせなければならない立場をとるのが介護者としての主体だと考える。」(p78)
 ここに見られる介護者の態度というのは、「重度者の自己実現の為に介護する以上、その責任ある主体としての重度者の存在そのものをそっくり引き受ける心構えで社会に対峙しようとする主体的な意識である。」(p79)
 
 もちろん、以上の金満理の主張が、介護のすべての場面で妥当するとはなかなか言えないことはぼくも認める。いわばそこにはある種の暑苦しさが伴い、そこまで引き受けるのはごめんだという人も、障害者・介護者ともに数多くいると思う。ただ、以上の介護者の主体性の側面についての議論はおそらく90年代に入ってからは、ほとんど聞かれなくなった議論であるようにも思う。
 もう一度、この辺の議論を振り返り、社会のあり方、それぞれの人間の主体のあり方、責任のあり方などについて考えてみてもいいのではないか、そんなことを思っている。

*なお、『ケアされること ケア その思想と実践3』には、小山内美智子、橋本操安積遊歩、中西正司等の諸氏も寄稿している。それぞれの内容については、ご自身の目で確かめてください。


ケアその思想と実践 〈3〉 ケアされること

ケアその思想と実践 〈3〉 ケアされること