ごはんをつくってあげたい、ということ

今日、人と話していて議論になった。

ある全身性の障害をもつ女性が、パートナーのためにごはんをつくってあげたいと思った。
そこそこ年なので、旦那のために女性がごはんをつくるのは当然であり、それが女性の役割だと思っている。
その女性は、女性の役割をはたせてこなかった。
一つには、パートナーが見つからなかったから。
もう一つには、重度の全身性の障害があるから。

彼女は、自分で家庭の家事の仕事ができない。

自分の身の回りのことは、介助者に言えばやってもらえる。
自分の自立は、介助者に指示をすればはたすことができる。

けれど、人のために介助を利用することはできない。

家族の食事までも、介助者につくらすわけにはいかない。

最近、パートナーが見つかり、相手のために毎日ごはんをつくりたいと思った。

いつも入っている介助者に、何の気なしに、これからごはんを二人分つくってもらうかも、と言った。

その介助者は、同じ時給で働いているのに、男性障害者の介助者は何もせず、わたしだけ働くのはなんだかなと思う、と言ったそうだ。

ぼく個人としては、この女性介助者の意見がまっとうと思った。

介助者としては、あくまで利用者個人の介助に関することをやるのが仕事であって、そのパートナーの食事の世話までやるいわれはない。

たぶん、男性障害者と男性介助者は、居間でくつろいで、お酒のみながらテレビでも見てるのだろう。

そんなとき、台所で、女性障害者と介助者がそのパートナーの分までつくるというのは、なんかしっくりこないところがいろいろあると思う。

このブログの多くの読者は、基本的にフェミニズム的思考を身につけているので、そもそもこの女性障害者のもつ女性役割の観念を否定するであろう。

別に居間でテレビをみている男性のために、女性が食事をつくってあげる必要なんてない。

男性もやはり相応に家事をするべきだ。

それはそうだと思う。

女性障害者は、妻は旦那のために食事をつくるという古臭い女性差別性役割の考え方を捨てきれないだけだ。
そこを改善したらいいんじゃないか、と。

通常のフェミ系の主張からすれば、そこで話は終わる。

介助はあくまで、個人に対する支援であり、その家族の世話までする必要はない。
制度的にも、家族に対する援助は仕事の内容に入っていない。
女性障害者は、昔ながらの考え方から抜け出せておらず、自立していない。
男性障害者も、当然ながら自立していない。自分でめしをつくるべきだ。

結論としては、介助者は個人支援の原則を守り、男性障害者も女性障害者も、個人として自立して、自分自身の食事をきちんとつくるべきだ、ということになる。


しかし、それでいいのだろうか?

ここからが、火花を散らす議論となった。

障害者は、相手のために「してあげたい」と思う。

その「してあげたい」の部分には介助がつくことができないのだろうか?

介助者は、思想的にも制度的にも、その障害者の「してあげたい」という思いを否定することになる。

気持ちはわかったとしても、現実にはその障害者の気持ちを封じることになる。

もちろん、これまで「主婦」としてやってきたヘルパーは、その女性障害者の気持ちをくんで、慣れ合いで二人分の食事もつくるかもしれない。それが女性の役割と思っている人にはあまり違和感がないだろう。

けど、最近の若い介助者たちの多くは、やはりそのやり方に違和感を抱くであろうし、「介助」という仕事の枠を超えていると思うだろう。

そもそも、何かを「してあげたい」と思うのは、人の「世話」をすることであり、「介護」をすることである。

障害者の自立生活運動で「介護」ではなく「介助」と障害者が主張してきた以上、「介護」の部分までも介助者がやる必要はない。主婦的部分は、自立生活運動では否定してきた部分である。

介助者は「介助」(パーソナルアシスタンス)に徹するべきだ。

しかしそれでも、その「してあげたい」という気持ちの実現についてはどう考えるべきなのか。

性役割(家事、育児、介護)を果たしたいという女性障害者の気持ちと、その気持ちの実現についてはどう考えるべきなのか。

これまで女性役割を免除され、そもそも女性として見られてこなかった障害女性に対して、女性役割を(ときに強要されつつ)何らかのかたちで果たしてきた健常女性が何をどのように言うことができるのか。

健常者ならば、いい悪いかは別として、女性役割をはたすかはたさないかは、ある程度選択の余地がある。

けど、もし上にだした結論にしたがうならば、障害をもつ女性には、女性役割は果たしてはならない、という道しか残されていない。

先に出した結論は確かに筋道だっているが、しかしそうした選択肢のなさについてはどう考えるのか。

自分の身辺のことだけでなく人のために何かをすることにも、介助がいる人は、介助者を通さないとしたら、どのように人の役に立てることができるだろう。

もちろんいるだけでも何らかの役にたつ、みたいな言い方はできるだろうけど、それはあまりに可能性・選択肢の少ない生き方である。

職場介助者という制度も、介助者が実際に仕事・作業をしてはいけないことになっている。障害をもつ人の障害の部分をカバーすることだけが仕事である。

介助内容に関する禁止事項の中で、経済活動に関することが挙げられているのも、人のために何かをすることには介助を使ってはならなない、という決まりがあるからだろう。

総じて、障害をもつ人には、人のために何かをする、人の役に立つという可能性が極めて限定されている。

人のために何かを「してあげる」ということは、確かにパターナリズムに通じる部分もある。

けど、だからといって、何かをしてあげることが禁止されている人生とは何なのであろう。

近年の制度は、個人・本人に焦点をあててたてられてきている。パーソナルアシスタンスはその典型。

けど、人は人とつながって生きている。何かをしてあげることもあれば何かをしてもらうこともある。その関係は、通常は、対等な個人同士のつながりとして言えるようなものはなかなかない。なんだかんだいってある程度のパターナリズムもあれば、ある程度の服従もある。

もちろんそうしたパターナリズム服従が個人の自立を阻害してきた面は否定できない。

けれども、自立のみでは社会は成立せず、また社会が成立しない以上、個人は成立しない。

支配と服従が固定化してはいけないし、性役割・性分業が固定化してもいけない。

やはり人のために何かをしたいと思うことはあるし、重度の障害をもっていても、それができるように保障があるべきだ。

その意味では、介助者と言えども、他の人のために動くこともありうる。他人の世話にまで関わるのだから、仕事量は増える。けど、そうしたケースがありうることは否定してはいけないだろう。

他方で、家族にしろ、パートナーにしろ、そこをあてにし続けていてはいけない。そこをあてにし続けることは、結局役割の固定につながり、強要につながるからだ。

議論は決して一筋縄ではいかない。

自分の価値観が絶対ではないし、その価値観が他者の抑圧につながっていることもある。

さまざまな他者の視点から、自分たちの価値観を検討しあえていけたらいいと思う。