フーコーの『カントの人間学』

カントの人間学

カントの人間学

今日本屋に寄ったおり、この本を見つけて、あっ、ついに出たんだと思い、けっこう喜んで買ってしまった。
フーコーのカント人間学論。うわさは聞いていて、けっこう興味があった。
夜、家に帰ってぱらぱらめくってみると、わりに分量が少ない。
他にやることがあったのだけど、とりあえずおおまかに目を通してしまった。

予想していた内容とはちょっと違ったけど、生きたカントが浮かび上がってきたように思う。
ごちごちの体系哲学者カントでもなく、ごりごりの道徳哲学者でもなく、現代風にスマートにされたカントでもなく、実際に18世紀に生きて、年取って、自身の哲学にもとづきつつ長生きのすべをさぐりながら死んでいったカントの姿がなんとなく浮かんできた。
18世紀の膨大な文献を渉猟するフーコーの面目躍如だ。
伝記作家はだいたいかっこいいところを描こうとするからあかん。
フーフェランととの文通なんて、これまでだれが取り上げただろう。
マイクロビオティック、すなわち人間の寿命をのばす術』なんて本の著者に晩年のカントが経緯を払い、ある意味で自身の哲学の参考にしようとしているらしいのだから、おもしろい。
それもおそらく、晩年のオプスポストゥムムに描かれる超越論哲学に結びていていく。

後年、歴史的存在論、批判的存在論を説いたフーコーのカントさばきはとてもおもしろい。
批判哲学と人間学をネガとポジと捉え、その反転、反復の運動に価値をみる。
批判哲学だけに目をやり、そこに人間学的本質があると信じ、いわゆる超越論的錯覚に陥っていった後世の人々を冷ややかにみているようだ。

誤った人間学というものがありうるだろう。実際、私たちはその例をしりすぎるほど知っている。誤った人間学ア・プリオリなものの構造を始まりの方へ、事実上あるいは権利上の始原(アルケー)の方へとずらそうとする。カントの『人間学』が私たちに教えてくれるのは別のことである。『人間学』は『批判』のア・プリオリを本源的なものにおいて、すなわち真に時間的な次元において反復するのだ。p118


ここで言う、「真に時間的な次元」というのがとても大切な部分だ。
それはどんな次元か。
それは、錯覚であり、だらしなさであり、ぼーとしていることであり、おしゃべりしていることであり、散漫なことであり、、、、そうしたあいまいさや間違いの多い日常の時間のことだ。

『批判』において時間は直観と内感の形式であり、所与にそなわった多様性はすでに作動している構成的な能動性を通じて示されるだけだった。時間は多様を、あらかじめ「我惟う」の統一によって支配されたものとして示していた。反対に『人間学』における時間は、のりこえることのできない散逸につきまとわれている。というのも、この散逸はもはや所与と感性的な受動性のものではないからだ。むしろそれは総合の活動が自分自身に対して示す散逸であり、総合の活動に「戯れ」のような色合いを与える。多様を組織しようとする総合の活動は、その活動自体から時間的にずれる。だから、この活動はどうしても継起のかたちをとり、誤謬と、惑わしに満ちたあらゆる横滑りを生じさせてしまう(凝りすぎるverkuensteln」「詩作しそこなうverdichiten」「狂わせるverruecken」)。『批判』の時間が本源的なもの(本源的な所与から本源的な総合まで)の統一を保証し、それゆえに「原(ウア)Ur-」の次元で展開されていたのに対して、『人間学』の時間は「逸(フェア)Ver-」の領域に運命づけられている。なぜならそこでは、時間によって諸々の総合が散逸し、ばらばらになってしまう可能性がたえず回帰するからである。時間のなかで、時間を通じて、時間によって総合がなされるのではない。時間が総合の活動そのものをむしばむのだ。p113


ここで、「『批判』の時間が本源的なもの(本源的な所与から本源的な総合まで)の統一を保証し、それゆえに「原(ウア)Ur-」の次元で展開されていたのに対して、『人間学』の時間は「逸(フェア)Ver-」の領域に運命づけられている。」と言っているくだりなどは、かなりしびれる。
つまり『人間学』は、そうした散逸、逸脱で特徴づけられるような時間の次元で、批判でいうアプリオリ(本源的なものUr-)を反復するわけである。

人間学』は起源の問題に真の意義を返してやる。その意義は最初にあるものを明るみに出し、ある瞬間として特定するところにはない。そうではなくて、すでに始まってはいるけれども、決して根幹にあることをやめない時間の横糸をふたたび見いだすことが重要なのだ。本源的なものとは実際に最初にあったものではなく、真に時間的なものである。それは時間のなかで、真理と自由が互いに属するところにある。


本源的なものとは「時間のなかで、真理と自由が互いに属するところにある。」
フーコーは、ここでいう「真理と自由」については本書においては多く語らない。
それは別の著作をまつのだろう。

ちなみに、なんとなくの印象だけど、汚れに染まった時間的なものから目をそむけず、むしろそこに真理の契機をみるフーコーの見解については、読みながら、こりゃぁ、「不断煩悩得涅槃」だなぁみたいなことを思ってしまった。
真理と自由についての心意気からすれば、臨済の言う「随所作主立処皆真」みたいなもんだなぁ、としょうもないことを妄想してしまった。
「用いんと要せば便ち用いよ」
それが「理性の使用」と響き合っているや否や!?