対称性の自発的破れ

「対称性は破れる運命にある」
Synmetries are destined to be broken.

ノーベル賞をとった南部さんは2、3年前日本の知り合いの結婚祝いにこんな言葉を贈ったようだ。

「対称性の自発的破れ」とは「素粒子の世界でも対称性が自然に破たんするケースがありうる」との考えのようだ。

いずれも新聞記事で読んだのだけど、何かしら、南部さんの美学を感じてしまった。

ふと、ぼくはレオナルド・ダ・ビンチの人体図、あの円形の中に均衡のとれた人間が左右対称に完全に収まっている図を思い浮かべ、そしてその完璧なるルネサンス人が破たんし、崩れゆくさまを想起してしていた。

滅び、崩れ、破れの美学とでもいうのか、完璧なものなどなく、一時そうあるものもいつか自然に破たんしていく、そうした意識。これを無常観というのだろうか。

「自発的破れ」というときの「自発的」は英語のspontaneousの訳なのだろうけど、これは日本語だとなんか「意志」と結びついてしまう語感があるけど、上の記事にもあるように、むしろぼくらの意図や作為にかかわらず「自然に」という意味に近いんだな、という印象を受けた。

そこでまた思っていたのは、カントにおける悟性の働きとしての「自発性」spontaneitat。
これも、ふと読むと、活動とか働きとか、なんか意志的なものに結びつくような感じで、カントの記述にもそう思わせる箇所もたくさんあるのだけど、むしろ「自然性」くらいの方が、ある部分ではカントの意図に沿っているような気がする。

Aktus der Spontaneitat「自発性の働き」といった言葉もあるけど、これは「自然な働き」とでも考えた方がいいんだろうなぁ、と思っていた。

自然な働き。悟性が、ぼくらの意図とかとはかかわりなく、自然に働き、その自然な働きによって自然界についての認識が成立しているということ。ぼくらの存在と、自然界にたいする認識が一致する定めにあるということ。ぼくらが、この自然界において確かな足場をもっているということ。移ろいゆき、偶然の積み重ねのようなこの宇宙の中においても、根っこの部分においては、この自然界の変動と確かな結びつきをもっているということ。なかなか素敵じゃないですか。

そうしてまたぼくは、その確かな結びつきもまた、いつか崩れゆく運命にあるとしたらどうだろう、などと夢想してしまった。私たちを外の世界とつなぐ確かな根底、土台が自然に崩壊していき、世界はまた別の相貌を私たちの前にあらわしてくる。確かと思っていた世界の必然性にもほころびが生じ、また別の世界がたちあらわれてくる。

そんなようなことを夢想しながら過ごした一日だった。

ところで、どうやらまた新たに日本人がノーベル化学賞をとったようで。

名古屋大学関係者が多い(3人)。昔はすごかったのかなぁ。

『民主と愛国』は読了。

結語はあんまり冴えない気がした。この本は、まとめや要約で読んでもあかんだろう。最初から最後まで通読しないと、戦後という時代の動態がつかめない。

読んでいて思ったのだけど、一つの生き物が廃墟の中から再生していく過程、あるいはその時々におけるさまざまな相貌、感情の揺れ、葛藤や対立、悩みや苦しみ、それの克服や執着などといった変遷の過程を描いているような本であった。もちろん、それは決して一つにまとまったものではなく、多様に外にも内にも開かれ、決して輪郭のないものなのだけど、まるで何ものかの動態・うごめきを経験しているかのような印象であった。
もちろん、「戦争体験」「敗戦体験」の上につくりだされた「国民共同体」(という幻想)が、その動態・うごめきの基底をなしているわけで、ぼくらは、常日頃はかなり無自覚であるが、決してその戦争体験(と、そのあとに残された廃墟)に基づく戦後意識からは逃れられていない。その戦後意識の中には、右も左も、革新も保守も、ナショナリズムインターナショナリズムも、すべてが含みこまれ、それらが様々な方向に向かって噴出しているわけだけれど、どうもぼくらの意識にのぼるのは、それらのうちのほんの一面にすぎず、常にものを見て判断するそのあり方が、時がたつにつれてますます、ますます、きわめて矮小化・形骸化されてしまっているようだ。おまえは右か左か、あいつにつくのかこいつにつくのか、といった点でしか議論がなされない不毛さに対し、少しでも風穴をあけていきたいな、とも思う。