崩壊の内在的な必然性

「いかなる盤石のような体制もそれ自身に崩壊の内在的な必然性をもつことを実証することは大げさにいえば魂の救いであった」

これは、丸山真男が戦時中軍隊召集日の直前に書いた論文を、戦後ふりかえって評した言葉。
徳川という盤石の体制が、それ自身のうちに崩壊の要因をもっていたということを示した論文。
それはつまり、戦前の超国家主義という国民全体をまきこんだ全体主義体制も、それ自身のうちに崩壊の必然性をもっていることを、間接的に、暗黙のうちに、戦争のまっただなかに論じた論文。

なんとなく、対称性の自発的破れの美学(?)に触発されて、ぼくの頭はこんなところにまでよぎっていた。

おりしも、アメリ金融危機の影響が世界規模にあらわれはじめ、冷戦後のアメリカ帝国主義覇権主義も内在的な崩壊を見せはじめている。

金融面以外にも、政治面でも、アフガン、イラン、グルジア問題等でアメリカは孤立においこまれているようだ。

ウォーラーシュテインは新世界秩序の誕生といい、寺島は全員参加型秩序への移行という。これを新自由主義の終焉と呼ぶものもいる。

名称はどうであれ、これが「冷戦後」の秩序の崩壊の兆しであることにかわりなく、塗炭の苦しみが待ち受けているのかもしれないが、実は新たな再生の兆しでもある。

その兆しを信じて進み続けられるだろうか。。。


『民主と愛国』を読んでいて、次のような言葉に出会った。

「戦後現実のなかでひとりが幸福になるためには万人が幸福にならなければならぬ」「自分の幸福のためにたたかいたい。そのたたかいのなかに民衆の幸福を求めたい」(荒正人

「現在の日本には不満足だらけです。然し私も日本人です。そして私自身も現在不満足だらけです。すなわち私は、自分及び自分の生活といふものを改善すると同時に、日本人の生活を改善するため努力すべきではありますまいか」(石川啄木の言葉を石母田正が引用)

いずれも戦後の廃墟の中から絞り出された言葉。

かりん燈で「万人の」というとき、この言葉のなかに見られるような決意と希望の灯のことをぼくは思っている。
自分(たち)のことだけを考えるのではなく、傍観者的に全体の政治情勢だけを論じるのでもなく、自分のことを論じることが、同時に、全体の福祉の向上にもつながるように、そういう地平からぼくは論じ、行動していきたい。