『責任という虚構』
- 作者: 小坂井敏晶
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2008/08/01
- メディア: 単行本
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『責任という虚構』(小坂井敏晶 2008年東京大学出版会)
人間は主体的存在であり、自分のことは自分で決めて行動する。また自分で考えて自分で行動するからこそ、自分がやってしまったことについては自分で責任をとらないといけない。自分で責任をとってやっていかいないといけない。まぁ、それが一般に近代的な人間像であり、障害者の自立生活運動でもよしとされる人間像だ。障害者が自分で決めないと、自分で考えろよ、自分で決めてくれよ、とまわりからつっこまれることも、しばしば見かける光景だ。
ある人から聞いた話では、先日とある由緒ある障害者団体の総会で、70年代から自立生活をしているが結局「自己決定が何だかわからない」、と発言した人がいたそうだ。それに対して、障害をもつある大学教授は、自己決定の中身が問題なのではなく、要は専門家主導に対するアンチテーゼだ、と言ったそうだ。施設で管理される生活はイヤだ、専門家が自分たちの生活や生き様を決めるのはイヤだ、そうした意味での自立や自己決定は確かにわかる。しかし、それをこえて、自己決定の中身を考えると、けっこう何が何だか分からなくなる。地域で暮らし、いろんな人と関わって、いろいろ影響を受け合ったりしていると、ほんまに私は主体的なんかなぁ、と疑問に思うのも普通のことだと思う。自立生活運動に関わっている人で、わりとそこら辺についてもんもんとしている人もけっこういるのではないだろうか。
この『責任という虚構』は、冒頭から、ずばり、近代的な主体的人間像に疑問を投げかける。ほんまに人間は主体的なのか、ほんまに人間は自分のことは自分で考え自分で決めてるのか。著者はそれらについて、ノーと言う。
著者は、フランス在住の心理学の研究者。人間は主体的なのか、他者に影響されないで自分で意志し判断することができるのか、それらについては、認知科学や社会心理学の実証的研究によれば、ことごとく否定されているそうだ。
自分で判断し行動できるから、責任も発生する(判断能力がなければ、責任は問われない)。しかしそもそも自分で判断し行動するということ自体が偽物であるなら、そこに責任がついてまわる必要もなくなる。人間は環境や社会や集団に影響を受ける存在であり、そもそも自分で判断して行動するとは(認知科学のレベルでは)言い難く、それゆえ責任の所在はその行為者にはない、そういう議論だってたてられる。
著者は、さまざまな心理学史上で有名な実験を例に挙げながら、人間の主体性に疑問を投げかける。
「自分のことは自分自身が一番よく知っていると言う。しかしこの常識は事実からほど遠く、一種の信仰にすぎない。」(16)
たとえば、靴下の展示スタンドをスーパーマーケットに展示し、市場調査という口実のもとに商品の質を評価してもらう。靴下は4本かかっている。どれが一番いいですか、その理由は何ですか?と尋ねる。おおよそ右側にある靴下がいい評価を受けた。理由を尋ねると、人それぞれに、こちらの方が肌触りがいい、とか、丈夫そうだ、などのもっともらしい理由が返ってくる。けれども、実はその靴下はすべて色・形・肌触りなど同じものだったそうだ。いい靴下と思って選んだ理由は、ほんとのところ誰にもわからなかった。自分の判断の根拠でさえ、思い込みにすぎなかった。
「行為・判断が形成される過程は本人も知ることができない。自らの行為・判断であってもその原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとく推測する他はない。「理由」がもっともらしく感じられるのは常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。しかし人間は理性的動物というよりも、合理化する動物だという方が実状に合っている。」(19)
著者の言うところによれば、人間は意志してから行為するのではなく、行為してしまった後に、その行為の意味付けを行う。手を動かすというとき、普通なら、手を動かそうと意志し、それから手が動く。けれども脳神経生理学の実験によれば、まず手の運動を起こす指令が脳波に生じてしばらく時間が経過した後で意志が生じる、そしてまた少し経ってから手が実際に動く、というそうだ。もちろん時間経過はコンマ何秒のレベル。それでも、意志が意識に生じたとき、ものごとはすでに動きだしているのだそうだ。だからやはり、人間は根本的には自分の行動に自分で説明がつけられない。なぜそういう行動をとったか、それを説明することが社会的に要請されるから、自分の行為のやってしまった行為に後から意味づけをするということだそうだ。
本書は、そういった認知心理学の話の他にも、なぜナチスによるユダヤ人大虐殺は起きたのか、普通の市民が、通常では決して手を貸すことのない犯罪行為に、なぜ手を貸していったのか、虐殺に加担した人々は、自分の意志や判断でそれを行ったのか、といった議論や、また、冤罪事件はなぜ起きるのか、あるいは現在の日本で死刑執行は、誰の責任と判断のもとで、どのようにとり行われているのか、そこに人間の自由意志はどのようにして働いているのか、あるいはむしろ、そういった場面でいかに人間の自由意志が働いていないのか、などについての検証があり、それらの話し一つ一つが興味深く、私たちの日常抱いている常識に挑戦するものがあり、とてもスリリングである。
自律とか主体性などについて日頃からどうなんだろうなぁ、と思いめぐらしている人は、ちょっと本を手にとってパラパラ眺めてみるといいと思う。全体を通して読むのはしんどいかもしれないけど、興味ある部分はきっとあると思う。
さてもう一つ、自律や主体性や自己責任を疑問に付す本書をぼくが推す理由をあげておこう。自立や自己決定が盛んに言われる中、先にも言ったように、その意味がよくわかんなくなっているという事態は確かにある。自分で決めるってどういうことなんだろ、とりあえず、自分で決めろと言われたから、とりあえず思いついたことを言ってみる、そんなこともしょっちゅうあり、一度立ち止まって、自立や自己決定ってなんだろうとゆっくり考えてみることはいいことだと思う。ただそればかりではなく、もし人間が、自分で意志してから行為する存在ではなく、行為してしまってから、その行為の意味を合理化する存在だとしたら、もしその合理化する(意味づけする)部分に障害のある人がいたら、その人はきわめてこの社会では不利な立場におかれるだろうな、と思うから、本書における議論が重要になってくるのだと、ぼくは思っている。
何かを見ると、自分で制御する前に体が勝手に動いてしまう、という人は確かにいる。動いてしまう理由は自分ではわからない。まわりの人は、大人なんだから自分の行動には自分で責任をとれよ、という。しかし、本人には自分で自分の体が動いてしまう意味がわからない。わからないのに、罰するべきなのかどうなのか、あるいは社会から隔離すべきなのかどうなのか、本書ではそれらの問いに答えは出されていない。しかし、その際、もし本人を罰するとしたら、それは本人が悪いからではなく、社会の秩序維持にとってよくないことだから、つまりトラブル・事件がおきたことに対するけじめ、落とし前がつかないから、社会の秩序維持のために、制裁として本人を罰することになる、という立場をとる。
本書でとられる見方によれば、自由意志や主体性というのは、言って見れば、誰にトラブルの落とし前をつけさせるかを追求し、その責任の所在を明確にするために社会的に要請される、ある種の虚構である。お前がやったことだから、お前が責任をとれ、と恫喝するための虚構である。やってしまったことに対して、本人には明確の理由や意図はなかなか見いだされない。
「犯罪者の素質があったから犯罪者になるのではない。まるで単なる出来事のように本人の意志をすり抜けて犯罪行為が生ずる。しかしそこに社会は殺意を見いだし、犯人の主体的行為と認定する。彼らは自由意志で犯罪を行ったのだと社会秩序維持装置が宣言する。」(202)
もし人間が意志してから行為するのでなく、行為してからその行為のもっともらしい理由を見つけるのだとしたら、それを説明するのが苦手な人にとっては現代社会はとてもすみにくい世の中だろう。またときに、自己責任論の名の下、現代の情報化社会の中では、バッシングやブログ炎上に見られるように、さして身に覚えのないことでも犯罪者や悪人に仕立て上げられ、スケープゴートにされることもある。誰かを見せしめに、憂さ晴らしに叩く、そうしたことが現代の人間たちも大好きだ。だれしも、なんらかの悪には手をそめているし、それがたまたま社会問題にされていないだけで、場合によってはスケープゴートに祭り上げられるかもしれない。そのとき、自分の責任の根拠を問われても、自分ではなんとも言い難いであろう。そう責められるから、自分が悪いことをやったんだ、と思うしかない。責任の不在。そして後から、責任はつくり出される。あなたを裁くために。
この書は、そうした責任追及の社会構造をある意味疑問に付し、そして、そうした責任追及の意識からは決して表れてこない、「人間の絆の謎に迫ろう」(255)とした本である。
(JCIL機関紙「自由人」に掲載)
以下は、ただのメモ↓
「人間は外界の影響を受けながら、そしてたいていは明確な意識なしに行動する。意志に従って行動を選び取るのではなく、行動に応じた意識が後になってから形成される。」(199)
「つまり悪い行為だから我々は非難するのではなく、逆に社会的に非難される行為を我々は悪と呼ぶのだ。」(195)
「正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。」(166)
「私の行為の本質的性格のゆえに処罰が発生するのではない。行為がどんなものであるかによって処罰が生ずるのではない。その行為を禁ずる規則に反したという事実が処罰を生むのだ。」(164)
「ある行為の行為者に責任を負わせることをもって、事後的にその行為の原因としての(過去の)意志を構成するのだ。」(150)
「意志は各個人の内部に属する実体ではない。それは社会秩序を維持するために援用される虚構の物語なのだ。」(149)
「主体とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスを意味している」(22)
「行為・判断が形成される過程は本人も知ることができない。自らの行為・判断であってもその原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとく推測する他はない。「理由」がもっともらしく感じられるのは常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。しかし人間は理性的動物というよりも、合理化する動物だという方が実状に合っている。」(19)
「意識は行動の原因というよりも、逆に行動を正当化する機能を担う。意識が行動を決定するのではなく、行動が意識を形作るのだ。」(16)
「自分のことは自分自身が一番よく知っていると言う。しかしこの常識は事実からほど遠く、一種の信仰にすぎない。」(16)
自分で考え、自分で決めるから、自立しているというわけではない。むしろ、社会的に自立している、主体的だと認められている規範に従って行為することをすることで、自立していると言われる。
介助者の障害
いやぁ、9月の25〜27日にかなりの無理をしてしまい、体が悲鳴をあげてしまった。
いまだ回復はせず、体の内部、外部といろいろ調子が悪い。
25日(金)の夜、かりん燈の臨時会合があり、10月24日大阪集会の出演者全員そろっての打ち合わせ。
中身がめちゃ濃い議論になってしまった。
濃くてまたもや、闇の重力に足を引っ張られるような印象が残っている。
一人の女性の言葉が、最近この界隈の状況を変えつつあるような感じもしている。
家族とか女性とか障害とか、そうしたものにまつわる闇の重力、それに慈しみを持ちつつ、同時に抗って、そこから発せられる言葉。
25日の夜に、そのまわりについてしゃべり、27日(日)夕方にはその声を客席で聞いた。
一つの場で聞いているかぎり、ある一つの立場からの発言にしか聞こえないのだが、別の設定の場でその発言を聞くことにより、ようやくもう少し大きな社会の布置連関の中でのその発言の位置取りが見えてきた。
27日(日)は障害学会のシンポジウムだった。
確か、「障害、女性、貧困」というようなテーマ。
5人登壇していたがみな女性。
どうも企画者たちは、きちんとこれら3つのテーマの相互連関に関する認識を深められていなかったようだが、その発言が、クリアな概念認識としではなく、直感的な訴えにおいてではあるが、それらのテーマの結びつきをぐぐっと聞いている者に実感させた。
学会としては、異例の語り口であったろう。
しかし、その異例の語り口、もやもやした、ちゃんと表現できないものを自分の言葉で語っていくという語り口をみなの前で実践することで、学会にある風穴をあけたようにも思った。
その風穴は、それに続く研究者たちの言葉によってふさがれてしまった印象ももったが。
ともあれ、この3日、二晩酒を飲み続けて体を壊した3日間だったのであるが、そのトンネルをくぐる中で、何かが見えてきたような気になっているのも確かだ。
障害問題と女性問題は、ぼくの中ではどうしても同列に論じることができないものだった。
障害者問題の文脈に女性問題を入れようとして語る人々の言葉が、ぼくにはなかなかなじみのいかないものだった。
実際に、多くの場合は、やはりちょっと違うし、ぼくが思っている違和感を共有する人もいるので、あながちこちらの理解不足だけというわけでない。
どうもそれぞれの立場で、乱暴な表現や言葉遣いになってしまい、お互いに自分の意見を相手にわからせようとするだけなので、なかなか理解しあうのは難しいが、きめ細かく見ていけば、なるほど、通じるものもあるのではないか、と思うようになってきた。
でも、それは、難しいし、やはり場合によっては危険な議論。そういう認識も片方でもってないといけない。
それはそれとして、図式的には、
健常者/障害者
男性/女性
という対立軸を並列的に眺めていてもよくわからない。議論はすれ違う。
そこで、
健常者性(男性性)/女性性/障害者性
と眺めてみる。しかもここでは、実際の男とか女とかではなく、男的なあり方(男性性)、女的なあり方(女性性)という言葉を使った。やっぱり男はあかんとか、乱暴な議論をされては困るから。さらにここで女性性と書いたのは、ケアの担い手役割とか母性とか、そういう意味ではない。それは、さまざまな事情で、時折働けなくなる身体のことを指す。つまり、ばりばり働ける身体(男性性)との比較で言ってみれば、不定期障害者的な身体のこと。つまりこれらを横に貫くのは「労働」あるいは「障害」という軸だ。
労働 健常者性(男性性)/女性性/障害者性 障害
そして実際の男、女、障害者は、この軸上のいずれにも位置することがある。
子育てするパパは中間の女性性のところに位置するのかもしれない。自立生活センターでばりばりに働く障害者は男性性のところに位置するのかもしれない。
まぁこれは、障害やジェンダーをめぐってああだこうだ言われている中で、それらを一つ筋立てて見るための一つの枠組みのあり方として提示しているのであって、これでもって複雑な議論を包括できるわけではないことは確か。
それでも、ここに障害者運動と介助者運動をつなぐキーを見るのはぼくだけだろうか。
ともあれ、こういう図式の上に以下の文章を重ね合わせてみよう。
健常者と呼ばれる人々から介助を受ける障害者と呼ばれる人々
この健常者と呼ばれる人々は病んでるらしい。
パニック障害なんです。
うつなんです。
不安障害なんです。
いろいろ、心病んでる。
この前は、私、発達障害やったみたいで…
と、言ってくる人がいた。
さすがに、おいおい、はじめっから言ってよねっ。と、思った。
こころの病にかかった人は、いろいろトラブルを引き起こしてくる。
トラブル、おこってから、実は、わたし。って…
正直、そんなんこと言われても…って思う。
こころが、疲れていたり、こころが病んでいたり、そんな時、働かんでもいいようなことになればいい。
休むことが、仕事しないことが悪いように思わされるこの世の中。
おかしいよね。
こころが壊れたら、休もう。
障害があるんなら、そのことどうしたらいいのか考えよう。
隠すことは、反則。
隠しても意味がない。
隠せば隠すほど問題が大きくなるだけ。
互いに自分の状況言い合って互いにいい時間にするようにしたらいい
すると、何かがすーとつながってくるような印象がある。
女性性に位置する部分は、女性問題というよりも、障害者問題に引きつけて考えた方がよいように思う。
つまりそこには、合理的配慮が必要なのである。
ちなみにこれはひろひろさんの文章でした。
『神無き月十番目の夜』
半年ほど前だったか、飯嶋和一の『出星前夜』を読んだ。
そのときの、心の底にどしっと重石をおとされたような印象が抜けず、今度は『神無き月十番目の夜』という小説を読んだ。
いずれも、時代背景は、戦国の世から、徳川の支配体制が確立していく時代の転換が舞台となっている。
片方は島原の乱を扱い、もう片方は、関ヶ原直後、常陸の国が水戸藩に再編されようとするさなかにおきた一村の村民による反乱暴動を描いている。
いずれも、反乱に加わった者たちの皆殺し、大虐殺で話が終わる。徳川体制が確立される際の、見せしめとして、村人たちの皆殺しが行われた。
舞台はいずれも、中世以来自治の伝統を誇ってきた一揆衆の村である。
その一揆衆の村が徳川の体制に編入され、自治の伝統が解体され、村々で守ってきた神、精神、心のよりどころが踏みにじられ、無きものにされていくさなかに、事件は起きた。
いずれもシステマティックな官僚支配体制における役人たちの腐敗が事件の要因であり、片方は過酷な年貢とりしまりと愚政、もう片方は民の心を踏みにじる検地の強行が引き金となる。
戦国の世に戦争を経験した者たちが、暴動よりは生き延びる道を探ろうとするのに対し、若衆が血気にはやり、剣をあげようとする構図も同じ。その若衆たちの先走った決起により、村に入った役人が殺され、事態が後戻りできなくなり、そうして、皆殺しの惨禍へと少しずつ向かっていく。
戦国の世から自治を守ってきた村々であり、平生農業に携わる村人たちもみな、すわ一大事となれば武器をもって自らの村を守る半農半士の一揆衆である。強い。しかし、徳川の威信をかけた圧倒的な武力征伐を前に、みな次々と打ち死んでいく。
その圧倒的描写がまず心を深くえぐる。
そしてまた、その全滅をかけた戦の中で耐え鍛えられる精神のありかの描写が、また心に深い錘をおとす。
その精神のありかの描写こそ、飯嶋和一が皆殺し・一村亡所という神の不在のただなかにおいて描き切ろうとした、歴史の闇の底からの叫び声なのであろう。
ふとぼくは、「神とは、内部では見えるが、外部では見えないような秘密を、私が守ることができるという可能性に付けられた名である」「見えない言葉そのもののおかげで、私が私のうちに、他者には見えない証人を持ちえたとき、私が神と呼ぶものがあるのだ」というジャック・デリダの言葉を思い出していた。
神は死んだ。神は見える神にとって代わられた。死んだ神は歴史の闇底に沈殿しつつ、重く深い響きによって人々を戦慄せしめている。
いちど「自立」をおりてみる
とりあえず、書きあげた。口語体のなぐり書きだけど。
最後の方の仕上げは不十分。
自分ではどう評価していいのかわからない。
なかなか長大だが、確かにこのくらいの分量はいるように感じた。
イメージでは、この自立論よりも、次の介助論の方が難産になりそう。
明日から、キャンプだ。
ちょっと休息しよう。
竹のディジュリドゥ、つくる時間があったらいいな。
ソフトボール大会
8月29、30日とピープルファースト関係の合宿。
立派な福祉施設に隣接する、街外れの山際の素敵な会館で、宿泊。
気持ちのいい二日間を過ごさせてもらった。
ピープルと、他二つの、3グループが合流して合宿をした。
「はなそう・あそぼう・ともだち連絡会」という。
去年もやった。
去年も楽しかったけど、今年も楽しかった。
妙な充実感がある。
やっぱり体を動かすのはいいなぁ。
一日目は、練習日。夜は、交流会やお話し会やら何やら。
お酒の入った時間、支援者同士で、方針をめぐって言い争い。
「支援者」やら「当事者」という言葉をめぐって不満をぶつけられる。
ぼくは「支援者」ではない。○○くんたちも一緒に酒を飲んでいる飲み仲間だ。それが楽しくて集まってるのであって、支援者、当事者なんて分け方はしたくない。
ピープルさんのやり方にはかなり違和感がある。
つまり、支援者ではなく「共感者」としてやっているのだ。違いということをあえて前面に押し出しはしない。
takutchiさんは、そこらへんどう考えているのか。
などなど。まぁぼくも言いたいことは理解できるので、さほど反論したわけではなく、つまりこうこうこういうことでしょう、という感じで、話しの整理をする感じで答えていた。
そんなこんなで、50代後半のおやじたちといろいろ話をする。
いろいろ、みなさん長い経験をもとに語っているので、楽しい。
やはりいろんな人と話し、いろんな考えに触れないと視野は狭まっちゃうだろうななんて思ったりした。
しかも、みなさん、TPOがけっこうあって、ある人がいるところでは冗舌になり、批判を向けたい当の本人がくると突然ひよったりする。まぁそのへんの人間臭さも楽しい。
じゃっかん二日酔いの中、朝風呂してがんばって目をさまして、9時からソフトボール大会。
天気もとてもよく、日差しも強い。
頭があつあつになる。
その中で、2試合。3チームの対抗のため、全部で3試合。1チーム2試合。
障害のない人たちは、逆手で打つ。
左打席もだいぶ慣れてきたため、けっこうぼくもいい当たりを飛ばせるようになったけど、ピッチャー強襲とか、わりとライナー性のあたりが多かった。
昨年に引き続き、ピッチャーにどんぴしゃぶつけてしまった。
昨年は可憐な少女の胸に打球をぶつけたが、今年はいかつい男児の太ももだった。ははは。
結果は、そんなに悪くない。
守備がけっこう肝心で、障害のない男性がどれだけの守備範囲を守れるかに、けっこうかかってくる。
ピープルは、サード、センター、ファーストを固め、ぼくはファーストだったが、やはり限界はあった。打球は抜けていった。
それでも、まぁそれなり打って、1勝1分け。よかった。
暑い中、体を動かし、二日酔いもちょっと重なったため、終わったら少々頭が痛かったが、充実感があった。
昼すぎ、家に帰り、シャワーを浴びて爆睡。
みんなで合宿するというのは妙な高揚感がある。
集団生活のもたらす高揚感だろうか。
今週末はまた、車いすと仲間の会のキャンプがある。
無能力批評Cについて
「光の中から闇は見えない。」(田中美津)
しかし闇が光に照らされたとき、再び闇は見失われる。
杉田俊介の「無能力批評C」を読んだ。(『無能力批評』大月書店所収)
副題は「1970年台前半神奈川青い芝と無能力のメルティングポイント」
昨日書いた「できる/できない」の話し、あるいは「内なる優生思想」の話しを徹底的に考察しようとした論考。
途中、難解になるので、以前はさっと読み飛ばしていた。
実際のところ、この論考をきちんと読んでいる人はほとんどいないだろう。
そこで言おうとしている、あるいは、杉田が信じようとしているぎりぎりの部分が、かなり難解な表現で語られていて、しかも題材が障害者運動なので、なかなか普通には理解しがたい。
今回読み直してみて、以前よりは彼が信じようとしている部分が読み取れた気がする。
明日朝早いので、今夜はメモ程度だけ。
彼がもっとも力を込めて書いたと思われる部分の引用。
横塚はただ、「本来の労働」の原義に立ち返るならば、社会的な労働・交換・交通へと転化=拡張されないどんな行為も存在もありえない、もちろん知的障害者であれ重症児であれ、と言っているのである。そこでは「障害者の労働はその特色ある形そのままの姿で社会的に位置づけられ」る。原罪以前のコミューンへの回帰願望でも、未来に来る黙示録的革命への希望でもない。[以下、すべて強調の傍点つき]無能力というヴェールを通してこの世界を透かして見る時、「日常の」すべての営みは無限に多様な交換=交通の様式として ― その躓きと不可能性として ― 見通されていく。そしてまさに交換の失敗・不能・外部性が一層高次化されていく時こそ、すべてが社会的な意味での交換=交通へと転化していく ― もしそこにあの無能力という「別の価値」=弱い光が、無限に多様な星雲として降り注いでいるならば。
これだけではわかりにくいので、もうちょっと噛み砕いている部分。
しかし、人が「本来の労働」の原義に立ち返って「寝たっきりの重症者がオムツを変えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることがその人にとって即ち重労働とみられるべき」であるような社会構造が ― 交換を、しかもいわば無能力交換を通して ― 十全に染み渡った世界とは、どんな世界なのか。
「ウンコを」「とらせてやる」のも「一つの社会参加」であり、しかもそこにこそ「主体性」が差し込まれている、とはどういうことか。
ここでは未曾有の事態が予感されている。繰り返すがそれは前近代的な互酬的コミューンへの回帰ではない。革命の待望でもない。近代以降の資本制の全世界的で包括的な発展自体が、その不思議な自然の狡知によって、1970年代半ばごろの横塚が予兆したような社会を、商品交換を超える別の交換(無能力交換)を、未来に準備している。眼を曇らされることなく、横塚が実人生の経験から「原則的に」行き着いた能力主義のリミットを、それを組み替え新たな社会構造と交換様式を開くためのヴィジョンを、私たちももた(間接伝達において)変奏し、信じぬけるのか。貨幣の揚棄てではない。言語の揚棄ですらない。生産/交換/生存の失敗としての無能力をこそ揚棄すること。それが世界の隅々にまで十全に染み通った時が、その時だけが、横塚らが言う意味での社会変革が本当になされたときなのだ。
無能力の揚棄。無能力の高次化。あるいは、無能力というかすかな光をとおして、はじめてある新しい社会があらわれる。
つまり徹底して無能力をつきつめること。交換の不可能性、やりとりの不可能性、社会性の不可能性、そしてそれでも存在するところのもの、そこにとどまり、そこを見つめ、そこからある根源的な自由、根源的な人間関係を回復していくということ。
そうした可能性を1970年代の青い芝の中に見て、その可能性を信じようとする杉田の立場には全面的に共感する。ぼくもまたその可能性を信じようとしている者のうちの一人だ。
ただ、無能力というヴェールを通しての新たな社会のヴィジョンを「無能力の社会化」と述べ、それの潜在的な具体例として、自立生活センター等の当事者団体やその他非営利協同組織を挙げているとき、少なくともその現場にいるぼくとしては、まだ十分にその可能性をその場においてみる、と言い切れない何かがある。もちろん、行為者として、ぼくはその可能性を信じつつ、日々行動しているのだけれど。
杉田がさくら会の川口の言葉「なんだあ病気も患者の資源や商売になるなら文句ないんだね」を引用していることに象徴されるように、ある側面で見れば「無能力の社会化」は「無能力の市場化」「無能力の商品化」ではないのか。
そしてそのとき、おそらく最初の問い(これはぼくにとっての問いかもしれない)に戻る。
しかし他方で、その[自立生活運動の]「限界」もそちこちで聞かれる。「制度がそれなりに充実したので、かえって本人のパワーが衰弱した」「当事者がたんなる消費者=サービスユーザーへ切り詰められた」「介助者の存在がないがしろにされた結果、定着しない」など。…たとえば私が障害者介助に携わる川崎市では、驚くべきことに、今や青い芝のバス闘争や養護学校反対運動などの歴史が跡形もなく消え、当事者運動も自立生活運動もほとんど根付いていない。多くはただのサービスユーザーとなり、たとえば支援費制度や障害者自立支援法の流れの中で自立生活の可能性が切り詰められた時、全く反応できなかった。不思議なくらいの無風状態。だからこそ、CIL的な介助システム論の成果の上に立ち、かつ、当事者と介助者の間の関係を ― その非対称性・敵対性を消さずに ― 問い直していく、という「+α」も必要に見える。
この「+α」を現代の立場において問うていくことが、ぼくらの重要な課題なのだが、そのためには無能力の市場化・商品化という側面を十分に認識し・批判(批評)していく必要があると思う。
それはいかにして可能か。現代において「無能力」はいかにして可能か。