「介助なんて、つまんない仕事だよ」

「介助なんて、つまんない仕事だよ」

少々誤解を招く表現ですが、イデオロギー暴露の言葉として聞いてね。

と前置きしつつ、

最近ちょっと疲れ気味。

エンプティがつぶれた後遺症かな。

最近の仕事。

ピープルファーストの活動が、かなりぎっしり、密度濃い。

それから、障害者の入院時介護制度の要望準備。けっこうみんな苦労してて、病院内で一人死にかけたこともあったもんだから、かなり入念にやっている。障害者自身の体当たり的迫力が感じられないのが、ちょっと気がかりなのだが。。。

あとは、ふーむ。なんだろう。

明日は大行動の厚労省交渉に参加。早起きして東京へ。

まぁ、その他、何かと年度末になり忙しさ、切迫感、疲労感を感じる。


それで、表題の件にもどるけど、

さっきたまたま赤木智弘さんのブログを見ていたら、こんな文章に出会い、久しぶりに「介助労働」というものについて考えた。介助には言及してないけど、メンタリティ的に似通っていた。
遭難フリーター』という、フリーターの若者自身が監督になり自分の悲惨な生活や労働状況をとったらしい映画の上映会にいったときの話題。
http://blog.livedoor.jp/shimanekoblog/archives/780943.htmlより

で、岩淵監督のティーチインがあって、その中で、今は派遣ではあるけれども、時給のいい仕事をしているから、仕事はつまらないけど、生活には多少の余裕があるらしい。そこで質問してみた。
「もし、今のつまらない仕事のまま、給料だけ上がって生活ができるようになるとするならば、今の仕事を続けることができますか?」と、こんな感じ。
 すると岩淵監督は、それならできると言っていました。その返答で、映画の中で生き甲斐というものにすがろうとしていた岩淵さんの姿は、あくまでも当時のものに過ぎないということが、よく分かりました。逆に言えば、生活が苦しいからこそ、生き甲斐にすがろうとしていたのかもしれません。
 社会運動で政治を動かせるとして、政府が国民に対して与えられるものは「お金」だけです。
 現在の偏った再配分を是正することによって、今苦しんでいる人の生活は激変します。
 しかし、政府は国民に「生き甲斐」を配ることはできないのですから、それを社会に求めてもムダなのです。生き甲斐は衣食住が保証された状況で、自ら社会の中で見つけだすものなのです。
 貧困問題は徹底して「金銭問題」であり、社会運動をもって生き甲斐を云々するような考え方はムダであり有害であると、私は考えています。

この中で、

「逆に言えば、生活が苦しいからこそ、生き甲斐にすがろうとしていたのかもしれません。」

と言われているのだけど、

これこそまさに介助労働者のメンタリティそのものだなぁ、と思った。

先日もたまたま、よその事業所の介助労働者としゃべる機会があったのだけど、その人が目を輝かせて、確信に満ちた顔をして、ぼくに向かって

「この仕事って自分たちが楽しんでやるからこそ、利用者さんにも満足してもらえるんですよ。自分たちが楽しんでやらなきゃだめですよ。じゃなきゃ、こんなに給料の安い仕事はできませんよ。ね。そう思いません?」

う、うーむ。そう自信をもって言われても、、、ということで、言葉につまってしまった。

まぁ、こんなときも、この彼は、なんか自分自身をごまかしているんじゃないかなぁ、と思った。

楽しんでやる、それで利用者さんも満足する、とでも自分を納得させなければ続かない何かが、この介助労働の現状にはある。

けど、そう自分を納得させて、給料の安さや仕事の苦しさをごまかすにも限度があるので、けっきょく何も言わずに彼はときがきたら辞めていくかもしれない。もうちょっと給料のいい仕事が見つかったら、辞めていくかもしれない。

別に、介護・介助が苦しい、の一辺倒だけでないことは、確かだ。

けど、この仕事は確かにきつい。

きついのだけど、「きつい」といってはいけない何かが、ある。


このへんのことを考えていて、さっき介護の三つの「つ」を考えた。

「介助なんて、つまんない仕事だよ」

介助(介護)の三「つ」。

「つまらない」

「つらい」

「疲れる」


確かに。


確かに、つまらない。

関心のない音楽やテレビの話にあいづちをうたなあかんのも、つまらない。妙なうんちくを聞かされるのも、つまらない。いつも繰り返しおんなじすることもつまらない。云々


確かに、つらい。

トイレ介助は確かにつらい。お姫様だっこを何回もするのも、確かにつらい。雨の日に車いすをおして、長時間歩くのもつらい。深夜の仕事、早朝の仕事は確かにつらい。


確かに、疲れる。

毎日こんなことの繰り返しは、確かに疲れる。ちょっと解放されたい。



と、まぁ、これはこれで確かなのだけど、介助労働者自身はこういった率直な意見がなかなか言えない。

それをはっきりとは言わず、「やりがい」とかの言葉でごまかしてしまう。

つまんないのを、おもしろい、と言ってしまう。

そうすると、疲れてくる。

おもしろい部分も確かにあるのは否定しない。けど、大半はつまらない。

つまんないと思っても、つまんなさを隠すのは確かに仕事の大事な部分。

けど、今の介助労働は、つまんないと思うことすらいけないようだ。

全面的に楽しさと充実感、やりがいで彩らねばならない。

介助労働におけるその全面的な充実感は、しばしばある種の宗教的意識と結びつき、なおさら否定しがたいものとなる。

その充実感が利用されているとき、それは政治的には、人々が「動員」されている状態とも言える。

その動員体制においては、介助労働を「つまんない」などとは言ってはならない、思ってもならない。

そんなことを言うやつに、介助者の資格なんてない!


こんなわけで、普通の感性をもつ多くの介助労働者がつぶれていっている、あるいは人知れずやめていっているわけですが、まぁ、つまんないと口に出すのは仕事の上でよくないにしても、そんなことを思いながらでも、人の生活と自由を守る・保障するという仕事の意味をしっかりもった上で、多くの人が介助労働にかかわり続けていくには、赤木さんのように、やはり「金銭問題」しかない、とはっきり打ち出していってもよいと思う。


そういえば、かりん燈の介助労働者宣言は同じことを言っていたね。


ところで、介助はつまんない仕事だ、ということは、障害者・高齢者はつまんない存在だというのとけっこう等しい。(もちろん部分的に楽しい、ということはあります。)

そんなことを言うと、かつてマハラバ村で脳性まひ者たちに向かって、お前たちは社会の役立たずだ、しっかりと認識しろ、と叫んだ大仏空を思い浮かべるけども、それはそれとして、つまんない存在をしっかり金かけて支えるという社会は、やはり人が人に対して寛容な社会であろう。

つまんないのは、ダメですか?