丸山真男引用集3

「闇斎学と闇斎学派」より

正統の思考パターンを論じた個所より引用。

「反対の一致」、「矛盾の弁証法的統一」など京都学派を思い出させる表現に少々ドキッとさせられるが、さらに「正統の〈生々とした〉保持は、紙一重の差で異端に踏み込む「観念の冒険」を賭さなければならない」、「間一髪の差の自覚から生まれる精神的態度」、「この二つの谷の間の、か細い尾根を渡ろうとしていたのである。」などの表現からは、個々の正統思想のあり方というよりもむしろ、〈丸山自身〉の学問にかける気概・気迫といったものが感じさせられる。

その気概は、日本の思想を全体的かつ動的に把握しようとした丸山の精神そのものである。

ただし、両極としての近代化と古層の隆起の二重進行という日本の思想のメインストリーム、そこを見きったとき、丸山は大きな闇に包み込まれる。


「宇宙・世界・人間への意味賦与としての世界観が世界観としての全一性を具えるためには、〈両極性の統一〉という条件を充たさなければならない。これはニコラウス・クザヌスによって、反対の一致(coincidentia oppositorumu)と呼ばれたものにほぼ該当するし、用語のあまりの俗流化に倦壓の感を抱かなければ、矛盾の弁証法的統一といってもよい。この両極性又は対立性の具体的形態はそれこそ教義・宗教によって異なる。正統・異端の教義論〈ドグマティーク〉を典型的にくりひろげたキリスト教について例示すれば、イエスにおける神性と人性との矛盾の統一が問題の核心にあるが、その土台のうえに、人間の「原罪」と良心、内面性と儀礼、山上の垂訓における敵にたいする「無抵抗」と十字軍的正義、俗権の聖化(あらゆる権威は神より来る)と抵抗権(人に従わんよりは神に従え) ― そうしたさまざまの二元的な緊張がはらまれる。こうした両極性の一方の契機のアンバランスな亢進が、正統からみた異端の〈思想的〉特徴である。・・・絶対者との直接的な神秘的合一、早急な一挙主義、生活態度の極度の単純化、心霊の純粋性と無規律性への憧憬、などが古来、異端化される思考傾向の共通の特質となる。逆になぜ正統的思考パターンにおいて、「一致」や「合一」が必須になるかといえば、いうまでもなく秩序の一元性と、先に述べて来たような「一つの真理」の要請とが対応しているからである。もし単一の真理が崩壊するならば、それは正統思考にとっては宇宙と世界のおそるべき混沌〈カオス〉への解体を意味する。一方では、泥沼のような無秩序へ通じる真理の多義化にいかに歯止めをかけるか、他方でしかし、「一つの真理」への固執によって、世界の豊穣性を枯渇させ世界解釈の全体性〈カトリシティ〉を喪失する危険にどう対処するか ― 〈それ自体〉がまた矛盾の統一の問題に立ち帰ることになる。」(「闇斎学と闇斎学派」『日本思想体系 山崎闇斎学派』解説 p639-640)

朱子哲学の全体構造を貫いている集中と拡散、内面性と外面性、先験的契機と後天的契機、分析と直観、日常卑近と高遠、客観的対象化と実践的欲求といった〈反対方向への磁力〉の共存、及び「非連続の連続」という思考傾向」(同上p640)

「正統の〈生々とした〉保持は、紙一重の差で異端に踏み込む「観念の冒険」を賭さなければならない。前例に見た[佐藤]直方の「世上ノ実学者ハ異端(=仏教)ヘ流ルルキヅカイハナキコトナリ」という「実学者」批判を見よ。「禅意」からの安全地帯に〈最初から晏如として〉身を置いている実学者にどうして理一分殊の弁証法が分ろうか。「虎穴ニ入ラズンバ虎児ヲ得ズ」というのは、直方が〈学問の〉心掛けとして好んで用いた格言であり、「今時ノ学者ノ書ヲ読ムノハ、川ヲ隔テテ槍ヲ合セル様ナモノナリ。踏込ンデ突キ殺ス意ハ少モ無シ」(略)。稲葉黙斎も、程朱学の正統性自体が、矛盾の止揚の〈動的な〉過程として生れたことを、儒学の発展史として物語る。「・・・(略)」。漢唐訓詁学と程子形而上学との対立の統一として成立った朱子学の平衡性を、それ自体、〈静的に〉維持しようとする瞬間に、正統は「俗学」に顚落する。「吾党ノ学」にたいする危機感と、それに基づく自己批判が、見事に正統の論理のゆえに表明されている。崎門のリゴリズムとは、たんに狭義の倫理的厳粛主義ではなしに、中庸の保持とその逸脱との、間一髪の差の自覚から生まれる精神的態度にほかならない。」(同上p643-644)

「[浅見]絅斎は絅斎なりに、一方では窮理の客観的偏向と、他方では…心情主義的な(つまり「気」のレヴェルを出でない)偏向と、この二つの谷の間の、か細い尾根を渡ろうとしていたのである。」(同上p645)

「もちろん、正統の思考パターンが要請する両極性の平衡を〈志向〉することと、特定の思想家において、その平衡が達成されているかどうかということは、繰返しいうように、別問題である。むしろ、それが間一髪のバランスの問題であるがゆえに、〈現実には〉その思想家の気質や環境に制約された意図しない偏向、あるいは多少とも意図的な選好、による傾斜が現れざるをえない。とくに、それぞれ反対側から見て己れの逆方向への中庸の逸脱が目立つのは当然の現象である。こうして相互の「偏向」呼ばわりが、正統論議には殆ど必ず随伴する。」(同上p645-646)