丸山真男引用集2

「闇斎学と闇斎学派」の末尾近くより引用を二つ。(正統の思考パターンをめぐる引用は次回)

以下、最初の引用は、前回ブログに掲載した引用の後半部に対応。

1945年8月の「聖断」以降の日本人のずるずるべったりの「成長」は、まさしく(正統根拠不問・不在のままの)「つぎつぎになりゆくいきほひ」の全面展開ではないのか。(「古層」論の言葉では、「近代化と「古層」の隆起との二つの契機が〈相克しながら相乗する〉という複雑な多声進行」、「近代化と古層の露呈という二重進行」)

二つ目の引用は、まさしく丸山における「日本の政治像」を把握する上できわめて重要な箇所。批判されることの多い「古層論」は、ここに論じられている「凹凸」の片側(本居宣長の論理の側)を論じたものとして見なければならない。(むろんこの「凹凸」は「うち」や「そと」のようにとらえるのではなく、「二重像」としてとらえなければならない。)


「神勅的正統性にとって「肇国以来」の大事件となったのは、いうまでもなく日本帝国がポツダム宣言の無条件受諾によって第二次世界大戦終結させたことであった。ポツダム宣言の解釈をめぐって御前会議を真二つに割り、その受諾を遅延させた最大の争点は周知のように「国体の護持」にあった。日本国民の将来の政治形態は国民の〈自由な選択〉に委ねられるという命題は、事実上の結果の問題としてでなく、正統の問題として見るかぎり、万世一系天皇統治権の総覧者であることが「神勅」によって先天的かつ永遠に決定されているという建て前とは所詮相容れない。宣言の受諾をめぐる紛糾は結局「聖断」によって収拾された。そうして、国体護持を保証しないポツダム宣言を無条件受諾する「聖断」を疑った将校たちのクーデターは、・・・敢えなく挫折した。・・・しかし、この「聖断」に与する者にも、それは神勅的正統根拠の致命的な変革を承認するが故なのか、それとも「良くもあれ悪しくもあれ」 ― つまり聖断〈内容〉にたいする価値判断を棚上げして、ただ聖断は聖断なるがゆえに絶対である、という承詔必謹の立場、いいかえれば「神道ニ我国ノ道ハ君徳ノ是非ヲ論ゼズトアルガ難有事ナリ」(略)という理由によるのか、という問いをつきつけずにはおかないだろう。敗戦の破局から新憲法制定にいたる疾風怒涛の短い期間にわずかに波頭に浮かび上ったこの問いは、政治の「常態」化と経済の「成長」とともに、ふたたびその姿を没したかに見える。」(「闇斎学と闇斎学派」『日本思想体系 山崎闇斎学派』解説 p662-663)



「天命的正統性に普遍的原理を認める[佐藤]直方は、[強斎を原型とする近代日本のラヂカルな国粋派と]〈同じ〉徹底性をもって、日本のケースを天照大神の神勅という原点にまで遡及させねばやまない。天照は己れの子孫に無窮の繁栄を保証するかわりに、徳治主義革命の神勅を下すべきであった!「日ノ神ノ託宣ニ、我子孫ヲバ五百万歳守ラント被仰タナレバ、〈ヨクナイコトゾ〉。子孫ニ不行儀ヲスルモノアラバ、ケコロ(蹴殺)ソフト被仰タナレバ、〈ヨイコトゾ〉」(略)これは、時代は下がるが、一切の規範的価値判断を漢意として斥け、「良くても悪しくても」歴代の天皇を神代ながらに奉戴して来たところに、皇御国の万国にすぐれた伝統を見た本居宣長の論理(参照、直毘霊・くずばな等)と、ちょうと凹凸が逆方向から噛み合った形でぴったりと合った日本の政治像を形成する。・・・けれどもL正統についての〈方法的な〉徹底性という意味では正反対の方向から「一致」していた佐藤直方と本居宣長とは、ともに孤立的な存在にとどまったのが、事柄の盾の反面であった。そうして維新の内乱と、明治十年代の民権運動とをくぐりぬけて誕生した帝国憲法(とくに告文及び発布の勅語)と、教育勅語の「国体の精華」において、「血」と「聖徳」との二つの正統根拠は公式に合流したのである。」(同上p661-662)