丸山真男引用集1

はじめの4つの引用は、丸山の精神をよくあらわすもの。ここで丸山は福沢や内村について語っているが、実は福沢等にみられる矛盾したものの結合は、丸山の精神のうちじたいにもあった。近代と保守は丸山の精神の両極を構成しているのであって、外から見れば二つの「イズム」の矛盾が感じられるかもしれないが、まさに丸山の問題意識においては両者は結合していた。それが一つ。これは闇斎論における「正統」のパターンにも通低する。

次いで丸山の問題意識を具体的に規定しているところの日本人の歴史意識について。丸山自身が批判すべき当の対象であり、かつそこから逃れられないところの歴史意識の古層と、歴史におけるその具体的あらわれ(維新変革と1945以後)。闇斎論の末尾ではポツダム宣言受諾の「聖断」についても言及されている。「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」。

闇斎論からの引用は、今日は遅くなったので、また後日。


「つまり彼らの生き方なり思想なりには、日本帝国の正統的なパターンからはどうしてもはみ出さざるをえない〈あるもの〉がつきまとっており、まさにそれが三人の思想家としての生命力の源泉をなしていたのである。」(「福沢・岡倉・内村」『忠誠と反逆』p330)

「この三人の言論と行動には、あらゆる矛盾を貫いて執拗に響き続けるある基調音があった。まさにその〈何もの〉かが、彼らの矛盾にかえっていきいきとした生命力とはりつめた緊張とを与えている。本当に個性的な思想とはそういうものではないか。もっとも個性的であることによってもっとも普遍的なものを蔵する思想こそ学ぶに値する思想である。と同時にまたそれは「学ぶ」に容易ならぬ思想でもある」(同上p351)

「福沢における「痩我慢」の精神と「文明」の精神と、「士魂」と「功利主義」との矛盾あるいは二元性ということがしばしば指摘される。抽象的に二つの「イズム」をとりあげるならば、たしかにそういうもいえるだろう。しかし思想史の逆説と興味は、まさにそうした抽象的に相容れない「イズム」が、具体的状況になげかけた「問題性」に対する応答としては結合するというところにある。あたかも幕末動乱に面して武士における家産官僚的要素と戦闘者的要素とが分裂したことに照応して、忠誠対象の混乱は、「封建的忠誠」という複合体の矛盾を一気に爆発させた。家産官僚的精神によって〈秩序への恭順〉のなかに吸収された君臣の「大義」は一たまりもなくその醜い正体をあらわした。しかもいまやその〈同じ〉「秩序への恭順」が皮肉にも〈「上から」もしくは「外から」の文明開花を支える精神として生きつづけている〉ではないか。矛盾したものの結合は実は福沢の批判する当の対象のなかにあるのであり、「近来日本の景況を察するに、文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰頽するが如し」という状況判断に立った福沢は、〈右のような形の〉「封建性」と「近代性」の結合を逆転させることで ― すなわち、家産官僚的大義名分論から疎外され現実の主従関係から〈遊離〉した廉恥節義や三河(戦国!)武士の魂を、〈私的次元における〉行動のエネルギーとして、客観的には文明の精神(対内的自由と対外的独立)を推進させようとしたのである。『丁丑公論』における「抵抗の精神」の力説と、『学問のすすめ』や『文明論之概略』における「人民独立の気象」の要請とは、こうして福沢の立場においては密接につながっていた。」(「忠誠と反逆」『忠誠と反逆』p56-57)

「「うち」と「よそ」との遠近的な区別と使い分けを徹底して否定するからこそ、世界と日本、人類と日本人とは内村においてつねに〈二重像として〉存在する。人類愛か祖国愛か、世界主義か国家主義か、国歌主義か個人(人格)主義かというような択一は彼の場合ありえない。それは〈にせ〉の問題提起である。相闘っているのはどこまでも〈日本と日本〉であり、神の限りない恩寵と栄光の下にその天職をはたすべき日本と、腐敗と虚飾と偽善に満ちた日本と、この二つの「日本」に〈同時に離れがたく〉属しているという内面的意識がまさに内村の忠誠観のディアレクティークを形成しているのである。」(同上p87)


以下、「歴史意識の「古層」」より


「以上、日本の歴史意識の古層をなし、しかもその後の歴史の展開を通じて執拗な持続低音〈バッソ・オスティナート〉としてひびきつづけて来た思惟様式のうちから、三つの原基的な範疇を抽出した。〈強いて〉これを一つのフレーズにまとめるならば、「つぎつぎになりゆくいきほひ」ということになろう。念のために断わっておくが、筆者は日本の歴史の複雑多様な歴史的変遷をこの単純なフレーズに〈還元〉しようというつもりはないし、基底範疇を右の三者に〈限定〉しようというのでもない。こうした諸範疇はどの時代でも歴史的思考の主旋律をなしてはいなかった。むしろ支配的な主旋律として前面に出て来たのは、 ― 歴史的思考だけでなく、他の世界像〈一般〉についてもそうであるが ― 儒・仏・老荘など大陸渡来の諸観念であり、また維新以降は西欧世界からの輸入思想であった。ただ、右のような基底範疇は、こうして「つぎつぎ」と摂取された諸観念に微妙な修飾をあたえ、ときには、ほとんどわれわれの意識をこえて、旋律全体のひびきを「日本的」に変容させてしまう。そこに執拗低音としての役割があった。」(「歴史意識の「古層」『忠誠と反逆』p402)


「こうして古層における歴史像の中核をなすのは過去でも未来でもなくて、「いま」にほかならない。われわれの歴史的オプティミズムは「いま」の尊重とワン・セットになっている。過去はそれ自体無限にそきゅうしうる生成であるから、それは「いま」の立地からはじめて具体的に位置づけられ、逆に「なる」と「うむ」の過程として観念された過去は〈不断に〉あらたに現在し、その意味で現在は全過去を代表〈re-present〉する。そうして未来とはまさに、過去からのエネルギーを満載した「いま」の、「いま」からの「初発」にほかならない。未来のユートピアが歴史に目標と意味を与えるのでもなければ、はるかなる過去が歴史の規範となるわけでもない。」(同上p413)

「ことはたんに血統相承だけの問題ではない。「天つ国・国つ神」の〈非〉究極性と〈不〉特定性が、「いま」の立場から「自由に」祖霊を呼び出すことを容易にし、しかも〈新たなる〉変革や適応を、こうして呼び出された「原初」の顕現として〈連続的に〉とらえる、という特異な思考様式が可能となる。大化改新にはじまる一連の革新は、まさに〈同時代〉の ― つまり「いま」の ― 中華帝国の制度をモデルとして、「昨日」の旧習を「断つ」決断であった。したがってそのイデオロギーには儒教民本主義の影響が著しいのは当然といえるが、その反面にたとえば「随天神之奉寄、方今始将修万国」〈あまつかみのうけよさせしまにまに、まさにいまはじめてばんこくをおさめんとす〉…などの場合のように…「初発」の混沌からの〈再〉出発というイメージによって、当時(つまり「いま」)の外国文明をモデルとした変革は、スムーズに(!)天つ神の「事依さし」と連結させられたのである。このパターンが基本的に明治維新に再現していることは言うまでもない。『岩倉公実記』に出て来る、玉松操の王政復古=神武創業のアイディアは、さきにもひいた真木和泉守あたりにはじまるといわれるが「三千年の昔のてぶり〈立ち返り、かつあらた世と〉ならんとすらん」という真木の一首は、彼の意図をこえて「復古」の後に来るものを暗示している。もし神武〈創業〉の「業」に、たとえば周の井田制程度の具体的〈内容〉があり、それを規範化する伝統があったならば、「文明開化」という「世界の大勢」への適応はあれほど容易には行われなかったであろう。また反対に、「復古」のモットーがルソーの「自然にかえれ」の場合のように、現実の文明に対する対極理念であったならば、それはE・トレルチのいわゆる「革命的自然法」として機能したかもしれない。社会的=政治的な諸条件の問題を棚上げして、歴史の論理という側面〈だけ〉から光をあててみても、たんなる「藩政改革」のナショナルな拡大とみるにはあまりに大きな転換であり、さりとてトータルな革命にしてはあまりに穏和〈モデレート〉な、維新変革の性格は、「いま」の尊重の論理に内在する右のような両面性と深くかかわっていたのではなかろうか。」(同上p415-6)



これはおまけ。

「本稿[忠誠と反逆]準備中にあらためて私を驚かせ反省させたことの一つは、既成の忠誠対象のドラスティックな崩壊と<大量的な>忠誠転移という意味で明治維新に当然比較されるはずの1945年以後の「変革期」において、忠誠と反逆の交錯や矛盾の力学を自我の内側から照らし出してくれる資料、あるいはその問題を自覚化しようとする試みがあまりにも乏しいという事実であった。それはむろん天皇制化における国家的忠誠が敗戦までにすでに実質的に形骸化していたことを物語るものではあろう。しかしはたして問題はそれだけだろうか。」(「忠誠と反逆」p133-4)