天皇制の「呪力からの解放」(丸山真男の「良心」論)

丸山真男の「闇斎と闇斎学派」を再読。

闇斎って誰?からはじまり、かつ闇斎の弟子の佐藤直方や浅見ケイサイ、さらに彼らの弟子の稲葉ウサイや若林強斎など、まったく知らぬ存ぜぬの人々が出てきて、何が何やら分らぬままに、一週間ほど前、第一回の読書を終え、それからちょっとその辺の関係を調べた上で、今日、再読。

論文のだいたいの結構は理解できたと思う。

確か、橋川文三やら鶴見俊輔やらが丸山の第一の傑作と述べてる論文なので、いつの日にか読んでみようと思っていたところ、ようやく読むことができた。

『忠誠と反逆』の諸論文も確かによくて、特に表題の「忠誠と反逆」などはとても新鮮な気持ちで読んだ記憶があるが、どうも近代主義者と一般に言われる丸山がなぜこういった論文、つまりいわば封建時代の武士的エートス、さらに「葉隠」(特攻精神とも関わりある?)の精神をも称揚する論文を書いていたのか、けっこう疑問であった。

それが、今回「闇斎と闇斎学派」を読んでみて、けっこうなんとなく氷解した。

どこに丸山の起点・動機があるのか、なんとなくわかったような気がした。

「闇斎と闇斎学派」は、ぼくには、戦後すぐに発表されて丸山の名を一躍高からしめた「超国家主義の論理と心理」を思い起こさせた。

この「超国家主義の論理と心理」ついて、丸山は後年、こう述懐している。

「のちの人の目には私の「思想」の当然の発露と映じるかもしれない論文の一行一行が、私にとってはつい昨日までの自分にたいする必死の説得だったのである。私の近代天皇制にたいするコミットメントはそれほど深かったのであり、天皇制の「呪力からの解放」はそれほど私にとって容易ならぬ課題であった」

まさしく、この天皇制の呪力を、そしてその呪力と必死で闘おうとするとする丸山の姿を、「闇斎と闇斎学派」の論文で見たような気がした。

もちろん、以下の鶴見の言葉に、ある程度の影響を受けているのかもしれない。丸山は「闇斎と闇斎学派」を書き上げているとき、病院に運ばれたという。

「吐き気におそわれて、救急車を呼んで病院に入った、と言われた。闇斎学派は、丸山さんが一高、東大、東大助手のころに自分を押し包んでいた万世一系皇統学派の圧力を呼び出したのだろう」

闇斎学派というのは、万世一系の皇統学派を生んだとされる学統。浅見けいさいの「靖献遺言」は、維新の志士のバイブルとされ、また特攻精神の鏡ともなった。

丸山はおそらく、闇斎論文を書いた70年代においても天皇制の呪力から、解放されていない。常にその圧力との格闘が、丸山には存していた。

そしてその格闘が、わりに赤裸々な姿で示されたのがこの闇斎論文であった。橋川や鶴見が評価する所以でもあると思う。

一読したところでは、まるで分かりにくい。どこに丸山の意見が出ているのかな、とも思う。

しかし、結尾近くの

「[ポツダム]宣言の受諾をめぐる紛糾は結局「聖断」によって収拾された。・・・しかし、この「聖断」に与する者にも、それは神勅正統根拠の致命的な変革を承認するが故なのか、それとも「良くも悪しくもあれ」 ― つまり聖断内容にたいする価値判断を棚上げして、ただ聖断は聖断なるがゆえに絶対である、という承詔必謹の立場、いいかえれば「神道ニ我国ノ道ハ是非ヲ論ゼズトアルガ難有事ナリ」(強斎先生…)という理由によるのか、という問いをつきつけずにはおかないであろう。敗戦の破局から新憲法制定にいたる疾風怒濤の短い期間にわずかに波頭に浮かび上がったこの問いは、政治の「常態」化と経済の「成長」とともに、ふたたびその姿を没したかに見える。」

というくだりや、さらにその後の付言、

「ちなみに、戦争の終結を国民に告げる詔書には、「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」という句がある。」云々

のあたりを読むと、どうしてもうずうずとしてくるものがある。自分の深い内面レベルに照らし合わせてみても、もちろん表面的には天皇制どうのといったものは出てこないが、さまざまな価値観、親や友達を大切にする、警察の厄介にはならない、世間に迷惑をかけない、などといった単純に自分の行動を規定する無意識下の価値観が、やはり民主主義の土壌で養われたというよりも、もっと土着の儒教倫理や家訓めいたものの中で育てられたのではないかという感覚があり、そしてそうしたものに規定されている以上、どこかで、現在の自分も、かの聖断の延長線上にいるのではないか、聖断はもちろん現在では明示的に姿を現していないが、意識下ではぼくらを規定しているのではないか、そして、万世一系の皇統は、ひょっとしたら数十年後にはぼくらの目の前に猛然たる姿を現すこともあるのではないか、そんな意識に襲われるのである。

そうした丸山の苦闘を感じるとともに、また、丸山の態度(エートス)といったものについても、あるひらめきがあった。

「忠誠と反逆」を読んだ時の違和感がなんらか解明された思いがした。

それは、さっき、「超国家主義の論理と心理」を読み直して思ったことだった。

この論文のあるところで、こんなことが言われている。明治期のある自由民権論者が、それまで彼に深く根ざしていたはずの「忠孝」の観念をいとも簡単に捨てさることに対して、

「主体的自由の確立の途上に於て真先に対決さるべき「忠孝」観念が、そこでは最初からいとも簡単に考慮から「除」かれており、しかもそのことについてなんらの問題性も意識されていないのである。このような「民権」論がやがてそれが最初から随伴した「国権」論のなかに埋没したのは必然であった。かくしてこの抗争を通じて個人自由は遂に良心に媒介されることなく…」

つまり丸山は、ここで、なんらの精神的葛藤(抗争)も経ずして、安易にあっちからこっちへ乗り移れる精神をこそ、すなわちいわば良心の不在の精神をこそ批判しているのであり、決して単に「民権」につくか「国権」につくか、といった議論をしているのではない。

「忠誠と反逆」は、「自我と環境」という講座テーマに寄せられた一論文であるが、それはまさしく、上記の、現存秩序に対する自我の内面的葛藤、すなわち忠誠の相克がテーマの論文であった。

ここにはある連綿とした一連の流れがある。

丸山は、晩年になるが、先に引用したように、天皇制へのコミットメントを表明し、また、そういう自分に対する必死の説得として「超国家主義の論理と心理」を書いた、と述べている。それは丸山自身の格闘の産物であり、まさしく丸山にとっての忠誠の相克である。

それは70年代の闇斎論文にも引き継がれ、そこでも、自分自身の内部からこみ上げる万世一系の皇統の圧力を感じながらの、必死の格闘がある。

もちろん、その論じている対象である、山崎闇斎、浅見ケイサイ、佐藤直方等は、まさしくそうした格闘をした人々、すなわち中国の儒教に対して全人格的に、しかも「日本人」としてトータルにコミットメントしつつ垂加神道なり儒教倫理なりと向き合ってきた人々であった。

そうして「忠誠と反逆」で論じられる、吉田松陰にしても内村鑑三にしても、そしてその他もろもろの人物にしても、確かに忠誠対象は違えど、それぞれなりにその忠誠対象に全人格的にコミットメントしつつ、そして自我と環境の間で生じる様々な軋轢の中で精神の格闘を続けていた人々であった。

おそらく、「日本の思想」所収の「「である」ことと「する」こと」の末尾で言われている「ラディカルな精神的貴族主義」とは、そうした精神の格闘、いわば良心の格闘のことを指しているのではないだろうか。(先の引用「かくしてこの抗争を通じて個人自由は遂に良心に媒介されることなく…」を想起せよ)

そうしてまさしく、その「良心」の格闘を媒介とすることによって、「ラディカルな民主主義」があらわれてくる、ということではないだろうか。