自分の自由になる時間を持つ者/要求する者

『世界』の今月号(2008年4月号)の田村哲樹さんの論文「国家への信頼、社会における連帯」が小論ながらおもしろかった。

新しい制度・政策の構想にはいくつかの方向があるが、それぞれの問題点をあげたうえで最終的には、普遍主義的で、「労働(就労)」によって人を選別しないベーシックインカムの発想が重要だ、というもの。

ポイント。

田中拓道によれば、一九世紀末のフランスの社会的連帯の提唱者たち(L・ブルジョワやE・デュルケーム)において、「人間」は「労働する個人」へと読み替えられていたという。J・ハーバーマスもまた、福祉(社会)国家は、労働に伴う様々のリスクを緩和するための制度であるとともに、人々を雇用体系に組み込むことを目指す者であると言う。


「就労・勤労・労働」を社会的連帯の紐帯とする考え方。
つまり「正規雇用の稼ぎ手」である男性を社会の中心におき、そこを標準として家族、会社、社会、国家制度をつくってきたこれまでの社会のあり方。

そうした社会のあり方は、女性の社会進出(障害者の社会参加も含まれるか)、雇用の流動化、フリーター・非正規の増大等により、転換を余儀なくされているのだけれども、さらにその上で、社会的連帯の紐帯を「労働」にまとめることができるのか。

また、「労働者」を社会の人間の基本的な型とすることによって、「労働者」でない失格者(障害者等)を差別・排除してきた、というのもこれまでの社会の在り方の問題点だ。

労働を軸とすることは、労働条件を異にするもの、労働の機会を得ることができない者、家事・育児・介護などへの従事によって労働しようとしない者、明確な理由なく働こうとしない者を排除することにつながるのではないだろうか

(↑ちなみに、家事・育児・介護の労働としての価値を認めていないような書き方には、ちょっと問題がある)

最近では、障害者含めて、さまざまな「就労支援」がなされているけど、「就労」そのものが今後の社会においてなにより重要なものと考えてよいのかどうか。

働き方の多様化が現に進行している中で、「就労」だけで人はまとまるのか。

先に述べた非就労者への差別・排除の問題もあるが、そもそも「就労」以外にも、人間として生きる上でさまざまに重要な契機はあるはずだ。


というわけで、新しく人々のつながりを結びつけるのは何によってか。

人々が「われわれ」としてまとまるのは何によってか。

そこに出てくるのが、「自分の自由になる時間を持つ者/要求する者」としての集合性、というターム。

ベーシックインカムを受け取ることで、人々は労働以外のことに費やすことのできる時間を獲得するし、そのような時間を要求できるようになる。R・グッディンが指摘するように、「自分の自由になる時間」を持つことは、「自律」の重要な条件である。「自律」は一見個人主義的な原理に見える。しかし、自由な時間を持って自律できることが新しい集合性を担保する共通性となるということも考えられるのである


「自分の自由になる時間」を大切にしていく、これからの社会づくりのキーワードとしていくということ、これはとっても重要な指摘だと思う。

ちなみに、岡部耕典さんが、「自由を担保する所得」という表現でベーシックインカムとダイレクトペイメントを結んで考えている(のかな?)けど、「自分の自由になる時間」と共通するものがある。http://www.eft.gr.jp/money/index.htm
(「関係性構築の消費」はいまいちわかんないのだけど。)

話しは飛ぶが、障害者自立生活運動における「介助」は、まさに「自分の自由になる時間」の保障、という側面をもつ。

「介護・介助」は、なにも生理的必要の保障だけではない。人間の活動の自由を保障する、という側面がある。

サービス内容を行政側、提供者側に管理されないためのダイレクトペイメントの発想も、そこに起因している。

ぼくの中で、介助‐ベーシックインカム、何かがつながった。


もちろん、これだけでは片付かない問題はいろいろとあるだろうけど、ちょっと進展した気分。