母よ!殺すな

母よ!殺すな

母よ!殺すな

青い芝の会を代表する横塚晃一の名著『母よ!殺すな』が今年の9月に再刊されたので、ここで取り上げて紹介します。
本の帯には解説者立岩真也の言葉より、こうある。
「この本は、前の世紀に出た最も重要な本の一冊であり、再刊が長く待たれていた。」
では、なぜこの本が20世紀にでた最も重要な本の一冊なのか。障害者運動の歴史の貴重な記録だからか。そしてそれを障害者運動の歴史として未来に語り継がねばならないからか。そういう理解は確かに正しいが、この本を最も重要な一冊たらしめているのは、障害者運動の歴史としての側面ばかりではない。この本は、「人間の歴史」の記録として、われわれの心に刻むべきものがあるのだ。この本で語られているのは、障害者の生き様としてくくるよりも、むしろ一人の人間の生き様としてくくった方が評者にはしっくりとくる。
 今回、人間の歴史の証言として読むとき、評者なりに横塚の思想の核に焦点を絞ってここで紹介したい。(この部分について述べたものは他に少ないので。)
今、横塚の思想の核と呼んだものは、真の宗教家の精神とも呼べるものである。
この本の中でも、しばしば親鸞の言葉や浄土真宗の怪僧大仏空(おさらぎあきら)の言葉が出てくるが、評者には、横塚の精神の根底には真の宗教家の精神とも呼べるべきものがあると思う。その精神とは、安易に愛とか正義とかを口にする通俗宗教とはまったくの別物である
青い芝の会では「われらは愛と正義を否定する」という文句が有名だ。
けど、なぜか知らぬがその後の言葉「われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する」が、あまり評価されていないように思う。
たとえば、本に収録されている「さようならCP」上映会討論集でも「愛と正義の否定」にだけ人々の注意は言っている。
現代でも、新左翼系の運動の中で、わりと安易に「愛と正義の否定」が語られているように思う。その発言の根っこに何があるかについては思いを巡らすことなく。
横塚は晩年に「心の共同体」と言ったというが、すでに「愛と正義を否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解」という意味での「真の福祉」で、その共同体のことが示唆されている。
愛と正義の否定の根っこにあるもの、ここに言わば真の宗教家の精神がある。
否定に否定を重ねた根っことはどんなところか。それは、自己の罪悪性とエゴイズムの凝視を通して絶望に絶望を重ねた先にある「悲の場」だ。
「全ての行為が罪の積み重ねであり、差別を伴うものであるとしても、なおかつ人は(私は)生き続け行動し続けなければならない。それは行けば行く程、行動・失望、行動・絶望への道であり、絶望する己に絶望した時、そこに悲しみがある。その『悲の場』に待って私は多くの人に逢いたいと思う。そこはこの上なくすばらしい世界であろう。」(p150)
立岩真也がこの書を「不思議に明るい本」と呼んでいる由来は、実はこの最後の一文「そこ(悲の場)はこの上なくすばらしい世界であろう」にある。形而上学嫌いの立岩自身はもちろん宗教については語らないが。
絶望の終点にある「悲の場」、そこが「この上なくすばらしい世界であろう」と語れるのはなぜか。
立岩は、うまいぐあいに「不思議」という言葉を使っている。この不思議な明るさとは、真宗的にいえば、念仏で「南無不可思議光」といわれるときの明るさだ。
横塚は、この「不思議な明るさ」の場としての「悲の場」から行動し、発言する。それは当然安易な理解を絶するし、通常言う連帯とか共同体とかいうものからも絶している。徹底して横塚一人の場であるともいえる。
横塚は、各人が徹底的に自分一人になりきるというその場にたつことによりはじめて真の福祉もありうると説く。
そのイメージはたとえば次のように表現されている中に見出される。
「我々【CP者】が発言する場合考えなければならないことは、親兄弟から別れ一人ぼっちになった自分を想定した時、あるいは夕暮れの雑踏の中に放り出された自分(今の障害のままの)を発見した時、いかにさげびいかに行動すべきかということなのである。そして一人ぼっちになった自分、ありのままの姿の自己を捕えた時、自ずから己とは何か、脳性マヒ者とは何か、更に人間とは何かということにつきあたるであろう。」
この「一人ぼっちの自分」、たぶん障害者の自立生活運動の凄みは、この「一人ぼっちの自分」の発見にある。
これは言い換えれば徹底的な孤立である。この世の中、社会に放り出された者としての自己の自覚、単独者としての自己の自覚である。
ちなみに、ぼくがJCILで教わっている障害者の自立生活も、その真髄はピアカン云々ではなく、この「一人ぼっち」にある。
そして、その「一人ぼっち」の先にこそ、横塚的には「心の共同体」があるともいえるのである。
(なお、この「一人」という信仰体験については、パウロにもルターにも親鸞にも見出される。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなり」、とか、「わたしを愛しわたしのために身を捧げられた神の子(「ガラテア」)」、など。ちなみに、別に自立生活者が宗教者と言いたいのではなく、似たような次元にいたる場合があるということ。)
先に、この書『母よ!殺すな』は、単に障害者運動の歴史としてではなく、人間の歴史として読まれうる、と書いたが、そのことは横塚の最後の言葉「・・・己とは何か、脳性マヒ者とは何か、更に人間とは何かということにつきあたるだろう」ということからもお分かりいただけると思う。この書は20世紀に生きたある一人の偉人の、自己の探求の書であり、人間探求の書であるだろう。