うごめくものから
前回の最後で、
「当事者運動というのは今のかたちのものとしては、衰退するだろうな。」
と書いた。
このなかで、「今のかたちのものとしてては」という部分が重要だということに気づいた人はどれくらいおられるだろうか。
それなりに否定的、消極的に書いたように見えるが、そうではなく、
「新しいかたち」の当事者運動がありうるのではないか、ということを示唆している。
当事者運動の「新しいかたち」はどこからあらわれるのだろうか?
一つ書き損じていたが、「当事者」という言葉が現在通常使われている意味の中に、もう一つの欺瞞がある。
「当事者」とはまず、最近では、身体ないし知的・精神の障害(損傷・インペアメント)をもった人のことを指す。
しかしながら、最近の障害学が主張するように、障害とは「社会現象」の側面がある。
障害はその意味では、インペアメントを持った人自体に帰属するものではなく、社会に帰属するものである。
たとえ、インペアメントをもった人でも、時と場合によっては、社会に十分参加して自分の生を享受しうる人もいる。
今の世の中では、残念ながら、インペアメントを持つ人は、総じて、社会参加に大きな制約がある。
このような参加制約は、ひとえに社会に問題があるからである。
社会が改善されれば、その参加制約は取り除かれる。
社会の状況から社会参加を制限されている当事者、という意味で、障害者は「当事者」と呼ばれうる。
この「当事者」はたぶん、この語が使われだした最初の意味だ。
このような社会問題の当事者と、一個の身体に生じている問題の当事者との二つの意味が、運動の中ではごっちゃにして使われる。
ここに一つの欺瞞が生じる可能性がある。
言い換えれば、社会状況が漸次変わるにつれて、「障害者」は多様化し、希薄化する。にもかかわらず、一つの障害者という言葉でそれまでの集合をくくり続けようとすると、無理が生じてくる。
「当事者」は新しい社会状況に対応して生まれてくる。
ある種の社会状況がある種の人々を圧迫し、その人々を追い詰めていき、その人々の中にさまざまな感情が堆積し、うごめき、さまざまな苦しみ、憎しみ、嫉妬、ジェラシー、嫉みなどがある種の表現に固まっていくとき、「当事者」は生まれる。
その「当事者」は今どこにうまれつつあるか?