「当事者」

前の日記の続きというわけではない。

今日思ったことを書く。

「当事者」ってなんだ。
これは一つには、個人の実存をあらわすような言葉だ。本来的に自分自身の生においては自分しか「当事者」はいない。
ただ現在のところ多くの場合、この言葉は政治的に使われる。
たとえば障害をもつ人が「当事者」と呼ばれる。
特徴的なのは、この言葉が一人称単数でも一人称複数でも使われる点。
障害をもつという共通点だけで、「わたし」と「わたしたち」が区別なく、この言葉の意味に込められる。
身体障害者知的障害者精神障害者も生まれつきの人もあとから障害をもった人も金持も貧乏も、みんな「当事者」だ。
行政に対して、「当事者の声を聞け!」とよく叫ぶ。
この叫びには二通りの意味がある。しかし、あまり区別されていない。
一つは、自分自身の声をきっちりと聞け、ということ。
もう一つは、障害者当事者団体の意見をきっちり聞け、ということ。
前者はまっとうな意見だが、後者は留保が必要だ。
障害当事者団体がはたしてどこまで個々の「当事者」の代弁をしうるのか。
実際のところ、それが「団体」となった時点で、本来の「当事者」の声は消滅する。

たとえば、自分では介助を必要としない軽度障害者が、どこまで重度障害者の代弁をすることができるのか。
少なくとも、単純に介助の必要性という部分をピックアップして考えた場合、その代弁はかなり苦しい。

障害にもつづく差別、というような話なら、共通性も高そうだが、介助に限定した場合、共通性は正直薄い。

身体障害者がはたしていかほど知的障害者精神障害者の代弁をすることができるだろうか。
元健常者がはたしていかほど生まれつき障害者の代弁をすることができるだろうか。

そもそも、すべての人が自分で自分のことを言う以外に、「当事者」の主張なんてあるのだろうか?

「当事者団体」なんて言葉はそもそもどこかで語義矛盾なんではないか?

まぁしかし、現実というのは、そうしたことをとことん突き詰めるでもなく進んでいく。

けど、そうした矛盾はそこそこ暗黙のうちに気づかれ始めているし、当事者団体というのもどうも立ち行かなくなってきているので、
そのうち、当事者運動というのは今のかたちのものとしては、衰退するだろうな。