「支援者」という当事者

前回、新しい「当事者」は今どこにうまれつつあるのか、と書いた。

その答えは、それぞれに考えていただくとする。

実際には、たぶん、さまざまに難しい要素がからんでいる。

だれでもかれでも自分は「当事者」だ、と言って叫んでいい社会状況であるわけではない。

こころみに、今あなたが、自分は何らかのことについての「当事者」だ、と世間に訴えてみることを考えればよい。

さまざまな冷笑、無視、非難につきあたることは目に見えている。

で、その中から何を自分として考えていくか、それが問題だ。


それはそれとして、今日は「『支援者』という当事者」というタイトル。

今の社会状況においては、「当事者」とは障害者や野宿者のことを指す。

で、それらの人々の生活に具体的に関わり、ある程度生活をともにし、ときにさまざまな手助けをする人のことを「支援者」と呼ぶ。

「当事者」は、今まで述べているように、それ自体多義性を含んだ言葉だが、「支援者」はさらにあいまいな言葉だ。
「支援者」という言葉自体をきっちりと定義し、自覚的に用いている人はあまりいない。

時には「支援者」という言葉を否定する人もいる。
以文社から出ているVOL02の論稿「『支援者」という言葉を再び骨抜きにするために」(網島洋介)
がそれだ。

この論稿自体には、それなりに注目すべき内容も含まれているが、書いた当人はどうやら「支援者」という言葉がイヤらしい。
私は、確かに「支援者」であるが、野宿者のみんなとともに生活し、そこでさまざまに活動し、新しい「公共性」をつくりだそうとしているのだから、自分は非野宿者でありながら「当事者」である、というわけだ。

そして特に、行政やメディアによって野宿者/支援者の二分法が明確にとられ、そのことのために野宿者の問題がある意味野宿者自身の「自己責任」の問題に矮小化されてしまっている、ということに対する抗議の意味が込められていることは、この論稿を読むうえで重要なポイントだ。

今、この文章を書いている僕自身は、障害者の自立生活運動にかかわる「支援者」の立場にあるわけであるが、特に今書いた後者の部分、つまり社会問題が「当事者」に矮小化されるという部分は心当たりもあり、そのさいの行政等のやり口には憤りもおぼえてきた。

ただ、それにもかかわらず、この論稿には違和感を覚えることも事実である。
野宿者と非野宿者の間の絶対的格差がやはりこう述べていくと、うやむやになってしまうからだ。
支援者も人によってさまざまだろう。
しかし、多くの支援者は、湯浅誠の言葉は使えば、まださまざまに「溜め」のある状態ではないのか。
学歴がある、仲間がいる、親家族がいる、そうじて社会から排除された経験がない、等々。
もちろん、それらを全部クリアした「支援者」もいるかもしれない。
しかしそういう人はれっきとした「当事者」であろう。みずから別に「支援者」と名乗る必要はない。

障害者と野宿者の当事者性の違いはあるのだろうか。
だれもすきこのんで、障害者になる人はいない。このことはわかる。
さて、すきこのんで野宿者になる人はいるだろうか。
自覚的に野宿者支援に関わっている人は、ほぼ野宿者と同様な生活をしているだろう。
しかし、追い払われたわけではないので、仕方なくなった人とはだいぶ違う。

ぼくが言いたいのは、こういうことだ。
「支援者」なら「支援者」でよいではないか。あるいは、そうでしかないのではないか。
そして、自分は「支援者」という当事者である、と胸をはって言えばよいではないか、そういうことだ。

その際、はっきりとこの社会における自分の有利な立場の自覚もあるし、しかも、野宿者なり障害者なりをめぐる社会問題についての問題意識もある、それらを鮮明にうちだしていけばよいのではないか。

そのように自分の立場を鮮明に打ち出す、ということはまた、自分の言動に対して責任をもつ、ということを意味する。このことがとっても大切なことなのである。

当事者は当事者として、責任をもつ。そして
支援者は支援者として、責任をもつ。そういうことが大事なのだ。

どちらも、自分の置かれた社会的状況のなかで責任をもって生きていくのだ。


状況はだいぶ違うが、当事者/支援者を考える上で多少なりとも参考になる話をする。

とある脳性まひ者がいる。知的障害はない、と自分で言う。身体障害者である。
一方、主として知的障害者の当事者団体である、ピープルファーストというものがある。
主として知的障害者が、自分のことは自分で決める、と主張する団体である。
ただし、別に知的障害者に限っているわけではない。
脳性まひなど生まれつきの障害をもった人が活動に関わっている。

自ら知的障害はないというその脳性マヒ者、このピープルファーストにおいては、支援者きどりである。
支援者きどりで、知的障害の当事者たちを鼓舞している。
何か問題があるとすべて知的障害者のせいにする。
自分は、ちょっと外にたち、なんでちゃんとやらないんだ、と叱咤したりもする。
しかもそのくせ、自分が何かを責任もってやるわけではない。
団体がうまくいかない原因はすべて知的障害者のせいである。

ぼくは思う。彼は「当事者」であることから逃げているのである。
「当事者」には責任が伴う。その責任をとろうとしていないのである。

「支援者」はしばしば「当事者」を引き回す。
そしてそれがしばしば問題視される。当事者の気持ちに適っていない、当事者のペースではない、ということだ。今のままでいいという「当事者」もかなり多くいる。そういう人から見たら「支援者」はうっとおしい。そんなことはざらにある。

ほんまにひきまわしているかもしれない。しかし、やった方がいいことをやっているのかもしれない。それらは結局わからない。

当事者には支援者に味方の人もいるし、反対の人もいる。

だから結局よしあしはつけられない。

よしあしはつけられないけど、そのつどの状況のなかで人は動いていくしかない。

ならばせめて、責任をもって動こうではないか。
引き回すことがあってもよいではないか。
逆に、引きまわしてはいけないではないか。

答えはどちらにせよ、責任をもってことにあたろうではないか。

ある意味で当事者/支援者の二分法をあいまいにしたってよい。
ある意味では、その二分法はしっかり堅持すべきだ。

しかしいずれにせよ、自分の今ある社会的状況、社会的立場を認識し、その中から責任もって語り行動していかなければならにのではないか。

その部分においては、当事者/支援者いずれも、「当事者」であろう。